กลกิโมโน (きもの秘伝)

作者・พงศกร Pongsakorn Chindawatana


1

昔々あるところに・・

 

天と人が交流できた頃、″月の谷"という名の谷が日本にあった。

そこは美しく緑に溢れた場所で豊かな田畑があり、皆互いを思いやり質素に自給自足をしながら幸せに暮らしていた。

 

毎年7月は日本の星を祝う七夕の月で、月の谷の人々に限らず、

日本人は願い事を書いた短冊を笹の枝に美しく飾りつけるのである。

 

織姫という天帝の娘の住む天の川の地が七夕の発祥と言伝えられている。美しい彼女は働き者で 特に機を織ることをこよなく愛していた。

 

織姫の織物は精巧でとても美しく多くの天子達を満足させるものだった。

そのため、彼女はどこにも出かけられないほど毎日一日中機を織らなければならなかった。

 

彼女の父である天帝はそんな娘を不憫に思い、織姫に伴侶を持たせることを多くの若者に告示し、その中で織姫が最も気に入った若者が彦星だった。

 

牛飼の彦星は天の川の南岸に住んでいて、織姫に負けないほど働き者だった。

逞しく立派な風貌のこの若者は伴侶として申し分ないと、天帝はこの二人を結婚させることにした。

 

結婚後、二人は深く愛し合ったが、織姫は以前のように熱心に機織りをしなくなってしまった。

また彦星も同じように牛の世話を一生懸命しなくなってしまった。

彼は牛をそこら中にうろつかせたままにして、毎日二人であちこちへ遊びに出かけてしまっていた。

 

二人は幸せ過ぎてそれぞれの義務を忘れ、一緒にいると仕事をしなくなってしまったのだ。

それに怒った天帝は二人を天の川の別々の岸に別れて住む罰を与えた。

 

織姫は愛する夫と離ればなれになりひどく悲しみ、あまりの悲しみに涙が血になってしまうほどだった。

憐れなほどに毎日嘆き悲しむ娘を見た天帝は1年に1度だけ織姫が天の川を渡って彦星と会う許可を与えた。それが7月7日である。

 

たとえ1年に一度であっても 再び会える希望を持った織姫と彦星の2人は再会の日を楽しみに以前のように一生懸命働くようになった。

 


  

「もうすぐ、天帝の娘・織姫は彦星に再び会えるのだな・・愛する者と再び・・」。

 

若く立派な鶴の神は仰向けになり、天の川の上の星が淡く見える空を幾万幾千の月日眺めている。 彼は相棒の狐の神に呟いた。

 

この二人は天帝から毎年一度、人間界を訪ねる命を受けていて、今年は七夕の時期に、

月の谷に降りることにした。

 

この月の谷・・人間界と天界が最も近い場所で、満月の夜の谷では、丸く大きな月は手に届くほど近くになる。

 

鶴の神は健康と長寿の神である。

 毎年天帝の命で下界に降り病気、厄災を払い、人間の長寿無病息災の祈願をすると共に美しい声で子守唄を歌い人間の心を癒した。

 

もう一人の狐の神は稲荷の神で、信仰心の賜物である五穀豊穣を見届けるために下界に降りて来る。

 

この月の谷の人々はこの二人の神を深く信仰していて、参拝し祈願するための神社を祀っている。

 

黄金の鶴の神の神社は村の中心にあり、氏子として宮川一族がいた。

 

大きな森の中にある狐の神の神社は、リョウイチの一族により護られていた。

 

この二つの一族は仲がよく、谷の人々は、何千何万年もの間、共に幸せに暮らしていた。

 

「今回の七夕に谷の人々がお祝いに出てくるかどうかわからないな・・」 。

狐の神は濃い眉を顰めて不安そうに、銀色の目で空を見つめた。

 

遠くて雷鳴が轟き、強風で雲の塊になって流れてきた。

 

鶴の神も、相棒に負けないほど不安そうな顔色であった。 

「あの女が本当にやり始めたな」とつぶやいた。

 

「全く女というのは・・」。狐の神はうんざりした顔で言った。

 

「女性の全てがこうというわけではないさ」。鶴の神はため息をついた。

 

「あの女は執念深いから、それで私達はここで足止めを食っているんだ」。

狐の神はいらつきながら、険しい目で鶴の神を睨みつけた。

「君があの女を愛してやれば、こんなことにはならなかっただろうにな」。

 

「そんなことは無理だとわかっているだろう」。鶴の神は強い声で答えた。

「私には愛する女性がすでにいる。天の川で7月の星の姫が私を待っている」。

上空に光り輝く星のような鶴の神の目は遠い空を見つめ、不安げに重い溜息をついた。

 

空には幾万も輝く星と夜の深い色を割くような白い天の川があった。

星達は競い合うように輝いていたが、稲妻と遥か遠くから聞こえる雷鳴が月の谷の至る所に吹雪の襲来を告げていた。

 

二人の神は慌てふためき、右往左往する人々の表情にその不安をはっきりと見てとった。

夏に吹雪など誰も想像もしていなかった。それがいかに尋常ではないか。

何が起こったかを知っているのは鶴の神と狐の神だけだった。

 

この異常な現象。それは鶴の神に対する愛が叶わなかった雪女の復讐なのだ。

魔物が神を愛するなどあってはならないことだが、愛は禁止できるものではない。

 

いかなる時であれ、人間、神、そして悪魔さえも輪廻の中に巡っている。

 

若い神が人間の祈願成就のため下界を訪れるや、雪女は眉目秀麗な鶴の神に恋をした。

しかしその時すでに、その若い神には美しい天女である愛する人がいた。

 

明星皇女は7月の星の女神で、彼女の星座に従って移動する。

その動きが、悲しみの織姫に愛する牛飼いの彦星に再び会える時が来たことを告げるのだ。

 

鶴の神と7月の星の女神の愛は天の人々全てに祝福されていて、この若い神が人間界での無病息災祈願が終わった後、二人は結婚することになっていた。

 

しかし雪女が北方から来て、月の谷で鶴の神に出会った時、騒ぎが起こってしまった。

感情のない魔女でも、相手が眉目秀麗で鐘の音のような美しい声の鶴の神であれば、恋をしても不思議ではない。 

月の谷の人々を癒す鶴の神の歌い声は、その美しい声を耳にした人の心を幸せで満たすだけでなく、雪女のような悪しき魔物の心さえも掴み夢中にさせたのだ。 

 

鶴の神と目を合わせるや、雪女は不老長寿の鶴の神に恋に落ちた。

 

雪女は鶴の神に彼女の愛を永遠に受け入れるように懇願をしたが、それが叶わないとわかった時、雪女の鶴の神に対する愛情は怒りへと変わった。

 

「私の愛を受け入れなかったことを お前は必ず後悔するだろう」。

雪女は怒り狂い、怒鳴った。

彼女の愛を断った者は今まで誰もいなかったからだ。

もともと青白い雪女の肌はさらに青ざめ、怒りの炎に燃える目で鶴の神を睨みつけた。

 

女の周りの風がふわりと渦巻き、恐ろしい音をたて、彼女の質の良い絹のような艶やかな黒髪が風に吹かれ広がる様子は見るも恐ろしかった。

その髪が雪のように真っ白になると彼女の怒りは頂点に達するのだ。

 

「雪女よ・・」鶴の神は優しく語りかけた。

「愛というものは強要するものではないとお前もわかっているはず・・」。

 

「しかし私はお前を愛している」。雪女は頑なだった。

 

「私には愛する人が既にいる。明星皇女、7月の天女こそ私の愛する人だ。

彼女があそこで私を待っている」鶴の神は空を見上げた。

 

「よかろう。 お前が私の愛を受け入れない限り、お前を思う存分苦しめてやる。

まずはお前が愛してやまない月の谷の人間どもからだ」。

雪女の青白い顔は残忍で、血のように赤い唇には笑みを含んでいた。

「楽しみに待っているがいい、 鶴の神よ。お前に悲しみというものがどれほどのものなのかわからせてやる」。

 

ガラガラガラーッ!

 

悪霊女のその言葉が終わるや、空が激しく唸った。

そして実りの時を迎える稲をばらばらに倒す嵐が今日に至るまで数日間、吹き荒れた。

 

「なんということだ」狐の神は眉をひそめ憤った。

「こんなことになるなど・・あってはならないことだ」。

 

「なんだ?」。鶴の神は相棒の方を振り向き、輝く目で狐の神をまっすぐ見つめた。

 

「く・・くそっ!」。

狐の神はきつく唇を噛んだ。

「雪女は無垢な人々にこんなことをすべきじゃない!見ろ!まもなく収穫できた稲を全滅させやがった」。

 

「稲だけじゃない。その他の穀物の種が全滅するだけじゃなく、疫病が至るところで発生するだろう」。

眉目秀麗な鶴の神の表情は憂いでいっぱいになった。

魔女は月の谷の田畑に被害をもたらす嵐を呼んだだけではなく、吹雪さえも呼んだのだ。

 

真っ白な綿雪があっという間に降りしきり、一時間もしないうちに青々とした緑と花に溢れていた月の谷は寒々しい雪ですっぽりと覆われてしまった。

 

人々は混乱し、慌てふためいて家の中に隠れて行った。

7月に吹雪が起こったことなどかつてない。

今回の現象は月の谷の人々にこの上ない恐怖を与えた。

それと同時に、暖かだった天候が急に極寒となったことで病人も出始めた。

 

多くの人々は、自分達が何か悪いことをして天の神が怒り、それでこうした吹雪をもたらしているのだろうかと考えるようになった。

たくさんの人々が危険を冒してまで吹雪の中、救済を求めて鶴の神と狐の神の神社に参拝に向かっていた。

無論たとえ彼らが参拝に来なくても二人の神は人々を救う気ではあった。

 

「これは月の谷とその人々が被るべくして被る運命だと思うべきだ。

我々はかかずりあうべきじゃない! でなければ我々がずっと人間界にとどまらなければならなくなるぞ!」。

 

狐の神は 雪女と闘うための力を蓄えるため瞑想している鶴の神に目を向けた。

眉目秀麗な姿を見るその目は、天国への扉が一晩だけ開く7月7日の夜のことへの心配でいっぱいだった。

もし村の人々を救うことに時間を割いていたら 天に帰るのに間に合わなくなるかもしれない。

 

「留まって助けないなど どうしてできる?」。

鶴の神は目を開き、穏やかな目で相棒を見つめた。

 

「この事態は、雪女の我々に復讐心が、無関係の村の人に対して向いているからだ。

それはあなたもよくわかっているだろう」

 

「だが、我々にはもう時間がない。もし彼らを助けることに時間を費やせば、我々は天に帰れないぞ!」。

狐の神は 雲の塊で曇り、降りやまない雪を降らし続ける空を見上げた。

彼の表情は不安でいっぱいになっていた。

 

いまだに鶴の神の神社の外にはたくさんの人々が吹雪の危険を冒しても病気治癒のための薬を求めに来ている。

 

ここ数日間、雪はさらにひどくなり、病人の数は続々と増え続けていた。

鶴の神を祀る宮川家は不眠不休で病人に薬を配っている。

病人を救うのに必死になっていた。

 

もし夏の間、雪が降り続けば、村中に広がった病を薬で治療するより月の村の病人の状況がもっと悪くなる。 

体の弱い年寄りや子供達が落ち葉のように次々と死に、田畑が死滅したように手の施しようがなくなってしまう。

 

「しかし、あの人間たちは私に望みを託している。」鶴の神はきっぱりと言った。

「あの人達は普通の人間で、とても雪女には太刀打ちはできまい。

とはいえ、私とあなたが協力して立ち向かったとして、何の助けになるかはわからない。 雪女はどんな魔物よりも凶悪だ。数千年も修行をしたその力は相当なものだ」

 

「し・・しかし・・」。狐の神は戸惑いを隠せない。

 

「もし天に戻るのに間に合わないというのであれば、 あなた一人で戻りなさい。」 

鶴の神は意を固め、刀を取り出して自分自身を斬りつけ、その血を清水に混ぜたのである。

「私はこの月の谷の人々を救うために残る!」。

 

「何をしているんだ?!」。鶴の神の血の滴りが目の前の水入れに落ちるのを見たとき、

狐の神は愕然とした。

 

「神の血を混ぜた水は人間の病気を治すことができる。この神の水を雪女によって病に苦しみ、怪我をした人々の治療のため 宮川家に与えるのだ」

若い神は毅然とそう告げた。

 

「しかし、そんなことをすれば今後あなたは神として純潔でなくなる。

神の血が人間界に落ちた時、あなたの神としての存在は半減してしまう。

天の掟はあなたもよくわかっているはずだ!」。

狐の神の目は不安に溢れていた。

「こんなことになってしまっては、天帝はあなたを天に戻すことをお許しになるまい」。

 

「しかし 、もし天帝が人間を救うために私が進んでしたことだとおわかりになれば、 きっとお許しくださるはず」 鶴の神は断固とした口調で言った。

 

「あの人間たちは敬意を持って神を祀り、信心深い。

そのように人間たちがよい行いをすれば、神は加護を与えねばならない。

それでどうしてあの者達を放って置けるのか?」

 

「吹雪で出た病人達を治療することは解決策ではない。

吹雪を止めることこそが真の答えだ!」。

狐の神は意を決したように、相棒である鶴の神をじっと見つめながら言った。

「我々は雪女を退治し、この悪事をやめさせなければならない!」

 

「では、雪女と闘いに行こう!」。

鶴の神は目を開け立ち上がったが、彼の顔色は恐ろしいほど青白く、体は血を大量に失ったことで体力を消耗し、よろめいていた。

 

「やめろ」。狐の神は厳しい声で否定した。

 

「どういうことだ?」。鶴の神は輝く瞳の上の濃い眉をひそめ、立ち止まった。

 

「君は村の人々を助けるために、ここに残れ。私達二人共が行ってしまえば、村の人々を助ける人が誰もいなくなってしまう」。

狐の神は掃き出し窓の方に向かい背を向けた。

 

外に飛び出す前に振り返り、毅然とした声で鶴の神に言った。

 

「この私の手で雪女を退治させてもらう。もし私が戻らなくても心配するな。

だが、天の扉が閉まる前に どうか天上に帰る方法を見つけてくれ」 


空は澄み渡り、そよぐ風が心地いい。

 

屋外の人々の朗らかな声。

大人も子供もきっと楽しい素晴らしい体験をして家に帰えれると期待して来ている。

 

爽やかな夏が始まる月は学校が学期末を迎え、世界中からたくさんの子供たちがこの広大な遊園地にやってくる。

 

出演者控え室で、長身の美しい若い女性が一人寂しく座っている。

彼女の手にはおんぼろの古い本が一冊ある。

表紙はボロボロに破れた跡がありそれが十年の月日はゆうに経った古い本であることを物語っている。

 

「リンちゃん。また何をぼんやりしているの?そろそろ子供達に挨拶に行く時間だよ」。

中背の若い男が彼女を呼びに目の前に現れた。

彼はリンダラーの手の中の本を興味深げに見つめた。

端正な顔に浮かぶ笑顔と着ている白い服がジュンを物語から出てきた王子のように見せた。

 

「またその本かい?何の本なんだい?リンちゃん。きっと君にとって凄く特別なんだろうね。いつも持っているのを見ているから」

 

「日本の伝説よ」リンダラーはジュンに優しく微笑み、その本を見せた。

「全集10巻以上あって 子供達が日本の伝説を読むために書かれたものなの。

全部で10巻以上あるけど 私はこの巻が一番好き。

私の12歳の誕生日のプレゼントにお父さんが買ってくれた私のお気に入りの本で、

どこに行くにもいつも持っていくのよ」

 

ジュンは興味深げに その伝説の本の鶴と狐の絵の表紙を眺めた。

彼は慎重に本をめくり、中の挿絵を見るやリンダラーを見上げ

「これは月の谷の伝説だろう?タイ語は読めないけど、この挿絵でわかるんだ。

鶴と狐の・・」と尋ねた。

澄んだジュンの目は何かを思い出すようだった。

 

「この伝説は日本ではあまり広まってはいないから、日本人でこの話を知っている人はそんなにいないよ。でも僕が覚えているのは母が話して聞かせてくれたからさ。

母は月の谷の出身だからね。

母が言うには、かなり昔に鶴の神と狐の神が人間界に降りて 雪女に襲われた村の人々を助けるために雪女と闘ったらしいけど、鶴の神は自分は雪女には立ち向かえないので、 

その代わりに狐の神を雪女と戦わせたらしい。

それで狐の神は雪女とともに死んでしまったそうだよ」

 

「でも鶴の神も天の扉が閉まるまで村の人々を救うのに必死で、天には戻れなかったって・・」。

リンダラーは 立派な王子の服を着た青年から本を戻してもらいながら言った。

 

「リンちゃんは悲しい結末で終わるこの神話をどうして好きなんだい?」。

ジュンは若いタイ人の女性のそばにある椅子に腰掛けた。

 

「わからないわ。ジュン」。彼女は首を振って答えた。

彼女自身はその質問にうまく答えられなかった。

「たぶん、鶴の神の自己犠牲の行動に感動したんだと思うわ。

人間のことを心配するあまり自分は天には戻れなくなって、愛する7月の星の女神を鶴の神が帰ってくるまで永久に待ち続けさせなければならなくなったなんて」

 

「君は月の谷に行ってみたいかい?」。ジュンは彼女に尋ねた。

 

彼女と彼はこの遊園地で知り合った。

二人共同じくお金を稼ぐためアルバイトに来たのだ。


リンダラーは自分に自信がある人間だ。

彼女は人目を引くスラリとした体格で、容貌が美しいだけでなく聡明で優しいので、

彼と彼女はこれまで仕事の話以外の会話をするチャンスはそうなくても、ジュンはこのタイ人の女性にとても惹かれていた。

 

「とても行きたいわ。この場所の伝説の話を読むたびいつも、実際の月の谷ってどんな感じなのかしら?私が想像した通りに美しいのかしら?って 夢に描くのよ」。

リンダラーは興奮気味に言った。

 

「すごく綺麗だよ」とジュンは保証した。

「神話の国のように綺麗なところさ。もしリンちゃんが行ってみたいなら一緒に行こう。

僕が連れて行ってあげる。南の方に下ると そこは谷の中にある小さな村なんだ。

京都からあまり遠くないし」

 

「ありがとう ジュン。でも私は行けないわ・・。私は時間があまりないから。

大学の来学期の学費のお金を貯めるため働かなきゃいけないし。 

遊んでばかりいたら、勉強するお金が無くなってしまうわ」。

リンダラーはそう言い終わると溜息をついた。

この先、彼女には乗り越えなければいけない障害が他にもたくさんあった。

 

彼女は奨学生だった。 

ある大学から奨学金を受け、日本で修士号を得るため勉強に来ている。

卒業後は帰国し、大学で理学療法学を学生に教える応用医学部の先生になるのだ。

 

実際、リンダラーが4年の期限通りに勉強を終えていれば、彼女はすでにタイへ帰国をしていたのだが、最終段階の実験を失敗したため、全ての実験をやりなおさなければならなくなってしまった。その結果1年卒業が遅くなったのである。

 

契約では、大学は彼女に奨学金を4年間しか与えないことになっていた。

たとえ勉強が終わってなくても、リンダラーは規定通り帰国して働かなければならなかった。

もし彼女が勉強を続けることを主張すれば、たとえ大学が奨学金を打ち切っても仕方のないことだった。

 

「私が君を助けるためできる最大限のことは、後1年勉強を続けるのを許可することだけだ。」

奨学金の審査をする学部長がそう言ったことを彼女は覚えていた。

「大学としては君にはもう奨学金を出すわけにはいかない。規則に違反するからね。

だからもし君がまだ修士号を取るまで勉強を続けると主張するのであれば、自分で学費を捻出しなければならないよ」

 

「はい。」

「私はあきらめるわけにはいきません。ここまでやってきたのですからどんなことがあっても卒業します」。リンダラーは学部長にしっかりと答えた。

 

「それもよかろう」

 

受話器を伝わって学部長のため息が聞えた。

「君の健闘と、一日も早く帰国して学生達に勉強を教えらるようになるのを祈っている、ということにしよう。」

 

そういうわけで、彼女は来期の単位を取るための学費と生活費のお金を貯めるためアルバイトしなければならなかったのだ。

 

彼女の家は裕福ではない。

両親は農業を職業としていて、現在就学中の弟妹がたくさんいた。

 

修士号の勉強に日本に来れるとは・・。

子供の頃、父親に買ってもらった日本の神話で、日本に行きたいという夢があったが、

まさか本当に来れるとは思わなかった。

 

その日本の神話は、日本には古い文化があり、優しい人々がいる美しい国だとリンダラーに思わせた。

本の挿絵は夢の絵のように美しかった。

リンダラーは日本に関して美しい思い出があり、そして今、彼女は夢を実現させたのである。

リンダラーは10人限定で東京で勉強ができる奨学生の試験に受かったのである。

 

日本は彼女が夢見たとおり、本当に美しい国だった。

富士山、満開の桜、美味しい日本料理。

 

しかし学生という立場で生活をするのは、決して楽ではない。

奨学金にはかなり制約があるので、リンダラーは理性的にお金を使わなければならなかった。裕福な家の学生の友達のように贅沢はできない。

 

苦労して毎年過ごしてきた。大学からの奨学金は手元に残ることなく消えていった。

彼女は同級生からお金を借りるか、または、タイに国際電話をして同僚で、すでに先生になっている友達から奨学金が下りれば即返済をするということでお金を借りなければならなかった。

そうした中、次の年から大学の奨学金が停止され、リンダラーは支払いを維持する収入を得るため至急アルバイトをする必要ができてしまった。

いろんなところに求職の応募をし、最終的にこの遊園地で仕事をすることにしたのだ。

 

この世界的な遊園地は、リンダラーが通う大学から電車で30分程度とそう遠くないところにあるからだ。

遊園地は海のそばに建設されたため広大な敷地があり、これまで見たこともないほど美しい場所だった。

そこには、選べるほどたくさんの仕事があった。

最初、リンダラーは訪園したVIPの客とその家族のための通訳の仕事を応募したのだが、遊園地の支配人は実物の彼女を見た後で、彼女にはおとぎ話のお姫様になるよう話した。

この若い男は、リンダラーがおとぎ話を信じていることを知り、それこそ役者になる人間にとって、重要で価値あることだと思った。

 

白雪姫になる女性は、まず持って白雪姫を信じていなければならない。

そしてリンダラーはまさにその通りだった。

 

そのため支配人は通訳の仕事ではなく、衣装を着た仕事をするよう彼女に頼んだ。

 

毎日、美しい衣装を着て演技をし、子供達と写真を撮り、夕方はおとぎ話のキャラクター達とパレードに出るというのがリンダラーの仕事だった。

 

リンダラーは迷わずその依頼を受けた。

綺麗な衣装を着られるというだけでなく、この衣装を着てやる仕事は午後遅くから夜9時までだからだ。

それであれば、大学が始まっても実験と学位論文作成をしながら仕事が続けられる。

いろんなところで通訳をするよりもここでの仕事のほうが収入を増やせる。

出費の問題もなくなるだろう。

大学の奨学金を貰えなくても、心配する必要がなくなる。

 

以前は日本人女性の役者がこの仮装の仕事をしていた。

しかし、そのミチコが出産で退職したため演技者の欠員が出たのだ。

 

当初、ミチコの代役のすらりとした美人のさゆりは自分が本役に繰り上がるだろうと思っていた。

しかし、支配人からリンダラーがミチコの担当の役をすると聞いて、彼女は不機嫌になり、猛抗議をした。

 

「支配人がミス・リンダラーを白雪姫にするということは、私はこれからも補欠の役者ということですか?」。

さゆりの顔は怒りで真っ赤だった。

 

「その通りだ」と遊園地の支配者は抑揚のない声で短く答えた。

 

「あんまりだわ。そんなの不公平です」。

さゆりは不満げにリンダラーを睨んだ。

「何故、彼女をこの役に抜擢するんですか? ミス・リンダラーは理学療法士で 

演劇の基礎なんて、まるで持っていないじゃないですか?」。

 

どうして、彼女は自分の情報を知っているのかとリンダラーはびっくりした。

 

「どうして、私はそれを持っていないと言えるの?」とリンダラーは反論した。

「こういうことは天性のもので、内面的なことでしょう?私は子供の頃から演技することが好きで 格好で何度も演技したことがあるわ」。

 

「でも、これはそんなこと同じじゃないわ!」。

さゆりは噛み付かんばかりに彼女を睨んだ。 

「白雪姫は世界的なキャラクターです。私たちの遊園地も世界的な遊園地で

あなたの学校でのお遊びの演技とは違うのよ!」。

 

「私は白雪姫が好きなのよ!そして私はこれが自分の長所だと思っているわ」と

リンダラーはさらに反撃した。

どうしてさゆりに一方的にやられっぱなしでいられようか。

「女の子はみんなおとぎ話の世界と一緒に育ってきたのよ。もし私たちがおとぎ話を信じていたら 誰にだってなれるわ。私は白雪姫になれる自信があるわ!」。

 

「妄想だわ!」。

さゆりはしかめっ面をした。彼女の美しさはすっかり消え失せていた。

「白雪姫は単なる物語のキャラクターよ。 どこに実在してるって言うの?

私たちは現実にいる人間が欲しいんであって あなたみたいな妄想家はいらないわ!」

さゆりは 自分は話せば話すほど 支配人の自分への心象がどんどん悪くなっているのに気がついていなかった。

 

「私はあなたが何を考えているかはわからない」。リンダラーはさゆりを凝視した。

彼女の美しい顔には穏やかな笑顔さえあった。

目の前にいる人間をとても哀れに思った。

おとぎ話をまるで信じていないさゆりが、おとぎ話のお姫様の役をどうしてできる?

「でも 私はおとぎ話を信じているし、白雪姫を信じているわ」とリンダラーは、自分の主張を繰り返した。

 

このタイ人女性に感嘆している支配人の様子に、さゆりは我慢できなかった。

「でも ミス・リンダラーはタイ人で 日本人じゃないわ!」。

 

「白雪姫だって日本人じゃない。ということは誰でも同じようにこの役ができる。

ミス・リンダラーはおとぎ話を信じている。そして白雪姫を信じている。

これこそ僕が彼女を選んだ重要ポイントだ。

さゆり君には理解してもらって またこんな騒ぎがないのを願うよ。

僕は ミス・リンダラーには明日から早速始めてもらうことに決めた」。

若い支配人はあっさりと言った。

リンダラーが白雪姫の衣装をまとったら、おとぎ話の絵にふさわしく美しいはずだと彼は確信をしていた。

 

そしてリンダラーは支配人の期待を裏切らなかった。

しっかりと白雪姫役をこなし、遊園地に遊びに来た子供達の人気のメインキャラクターになった。

毎日、ミッキーマウスやドナルドダックに負けないくらい、一緒に写真を撮りたがる人たちに囲まれ、特に彼女が7人の小人と一緒にパレードの車に乗って現れると、感嘆の歓声があがった。

 

しかし、人の世では当たり前のことだが、好きな人がいれば嫌う人もいる。

リンダラーが人気者になり ファンが増えれば増えるほど、ますますさゆりはそれが気に入らなかった。

他の同僚を煽って陰口を言い、リンダラーと前に口をきいたことがない大勢の者は彼女を嫌うようになってしまった。

 

どんなに傷ついても、リンダラーは我慢をして、仕事を優先した。

そつなく仕事をこなせば、誰も文句は言えないはずだ。

そうすること以外でも、タイ人の気質の笑顔で闘った。

日本人の気質は大体、感情を隠す。

好きなのか嫌いなのか、満足なのか不満なのか、無表情で感情を隠しがちである。

初めの頃、リンダラーの笑顔は同僚に苛立ちが混じった驚きを与えた。 

同僚は此奴は馬鹿か何かで、だから一日中明るい笑顔でいられるのではないかと理解できなかった。

しかし、慣れるにつれ、たくさんの人が心を開き始め、彼女に笑いかけるようになった。

そして、さゆりが作った険悪な雰囲気も徐々に和らいでいった。


3

今日の遊園地は、いつもより来園者はまばらで静かだった。

キャラクター達が来園者との写真撮影に出演するまでの残り時間は10分だった。

リンダラーが窓から外を見ると、ほとんどの来園者が家族連れで来ているのが見えた。

 

両親が子供の手を引いて歩き楽しそうに笑い声を上げていた。

故郷を恋しく思わずにいられなかった。

長い間、両親の元に帰っていない。

現在、お金をなるべく節約しなければならず、家に国際電話をすることさえ無駄使いだった。

 

彼女は、手に持った神話の本を興味深く眺めている王子役の友人に、土産店に便箋を買いに行くと告げた。母親に手紙でも書こうと思ったからだ。

 

「リンちゃん、早く帰っておいでね。もうあまり時間がないよ」とジュンは念を押した。

 

「大丈夫よ。もう化粧も着替えも終わっているから。あとは髪にリボンをつけるだけ」。

彼女は鏡の前の大きなリボンに目をやった。

 

白雪姫のトレードマークのそのリボンは、彼女が唯一好きじゃない衣装道具だった。

髪につけると重くて痛い。しかし、遊園地の規定で付けないわけにはいかなかった。

 

出演者の控え室の外はまだ蒸し暑いが、空は澄みわたり、午後の日差しは暖かかった。

海から風が強く吹き、藤の花の香りを運んできた。

その香りは独特な優しげな匂いで、嗅いだ人誰もが心地よさを覚えるのだった。

 

日本には、国花である桜がある。

毎年の3月から4月、冬が過ぎ気候が暖かくなると桜が咲き始める。

桜はピンク色で可愛らしい。

華奢な花びらが南の島から北海道まで追うように咲いていく。

桜の命は短い。とかく長くは続かない私たちの幸せと同じようだ。

 

その時期は世界中から桜の美しさを見物に旅行者が大挙して訪れ、どこの桜並木も人で溢れる。その桜が散った後は、藤が咲く季節の到来だ。

 

リンダラーは桜よりも華奢で優美な花の形をした鮮やかな色彩、鼻に残る甘い香りの藤が

好きだ。

 

日本に来た最初の頃、この花を見たリンダラーはゴールデンシャワーだと思っていた。

花の形状は長い穂で鮮やかな黄色の花びらをもっていたからだ。

 

しかし、藤に近寄ってみるといい香りがして、藤の木は高く大きな幹をしている。

蔓の枝は長い蔓生植物でさらに黄色だけでなく紫や白、ピンクや珍しいインディコブルーなどいろいろな色があった。

 

文具店の前に大きくて背の高い、広い枝葉を持った藤の木があった。

リンダラーはその木を見るのに夢中になっていたので、木の下で車椅子に乗ってしょんぼりしている小さな女の子が前方にいるのを見落としそうになった。

女の子の目には涙が浮かび、今にも流れ落ちそうだった。 

可愛いらしい顔立ち、赤い唇の小さな女の子で 年の頃は10歳を超えてはいない。

小さな天使のように美しく着飾り、白いふわふわのスカート、ピカピカと光る刺繍された半袖の上着、頭には銀色の小さな王冠を被っていた。 

こんな風に可愛い服を着て遊園地に遊びに来れるのなら、女の子だったら誰もが幸せなのだろうが、この子は違っていた。 顔色や様子からして不幸そのものだった。

 

「どうかしたの?」

誰がこの身体障害の子をひとりで置き去りにするようなひどいことをしたのか?

リンダラーはその女の子の前に腰をかがめて、細くて小さな脚と車椅子の車輪をしっかり掴む手を観察した。 

そしてこの子の保護者を探すため辺りに誰かいないか見回した。

 

「言ってちょうだい。お父さん、お母さんは一体どこにいるの?」

リンダラーは子供の前にしゃがみ尋ねた。

 

「あたし・・あたし・・」その女の子が答えられるのはそれだけで、後は「うわーん」と

声をあげ大泣きしてしまった。

 

「お嬢ちゃん。」リンダラーは手を伸ばし、優しくその子の腕に触れた。

「どうしたの?どうして泣くの?」

 

「全くだよ。その子はなんで泣いているんだ?」枝の上から小さな声が聞こえてきて 

リンダラーはそちらを見上げた。

 

それは 2羽の雀が話をしている声だった。

「何があるって言うんだよ!!!」大きい方の鳥は小さい方の鳥に答えた。
「この子の父ちゃん、あっちで若い女をナンパしているよ!

若い女にばっか関心持ってさ、自分の子には無関心で迷子にさせちゃったんだよ。」

  

もし他の人間で鳥が話しているのが聞こえたら びっくりして気絶していただろう。

しかしリンダラーはただ黙って鳥たちの話し声にじっと耳を傾けた。

この小さな動物は人間がまだ知らない何かの情報をどうやら知っているようだからだ。

しかし鳥達はこの人間が彼らが何を話しているのかよくわかっているとはまだ知らない。

 

鳥は人間の言葉を話せるわけではない。その一方、人間は鳥の言葉が逆に聞き取れる。

誰もがこのような能力を持っているのではない。

Animal Whispererいわゆる動物と会話ができる能力を持つ人間のみである。

リンダラーはこのような能力を持つ一人だった。

動物の言葉が聞き取れるだけでなく、彼らと会話もできるのだ。

 

彼女は12歳の誕生日まで 動物の言葉を聞く能力があることは自分自身知らなかった。

ある日、彼女が普通通りに学校に行ったとき、午後には蛙の腹を切って体内の器官を観るための生体実験があった。

リンダラーは友達よりも早く昼食を食べ終わり 愛読書を忘れたのでそれを取りに教室に戻ると 偶然小さな声が聞こえた。その鳴き声はちょうど実験室の後ろの方からだった。

 

「最悪だ。」1匹の蛙が仲間の蛙に言う声だった。

 

「何は最悪なんだ?」残った蛙が聞いた。

 

「俺たちは死ぬんだよ。」さっきの蛙が言った。

 

「なんでそんなことになるのさ? 俺たちは逆に快適じゃないか。世話をしてくれる人がいてさ、これからもう池やら貯水池やらに飯を探しに行かなくていいんだからさ。」

 

「誰があいつらは俺たちの世話をするために連れてきたって言ったんだよ?

奴らは逆に俺達を殺すために連れてきたんだぜ。俺達はもうすぐ死ぬんだ。

あのガキ共は俺達を生体実験のために捕まえたんだ。俺達の肝臓やら内蔵を取り出して勉強するのさ。」

桶の中に監禁されている太った蛙は震えながら鳴いた。

 

「まいったぞ。それで俺達はどうすればいいんだ?」もう1匹の蛙が仲間に呟いた。

 

一方、先生が蛙を監禁している桶の傍に立っている少女・リンダラーは驚きのあまり固まってしまっていた。

「耳が変・・耳がおかしくなっちゃったんだわ!」

彼女はあの状況を今でもしっかりと覚えている。

リンダラーは硬直したまま 自分の目が信じられないというように大きな桶の中の蛙の群を見つめていた。

 

少女の背中の真ん中にある星の形の痣がズキズキした。

まるで生きているみたいにあるこの星の痣は子供の頃からある。

リンダラーの母親は彼女が生まれた夜、それは空の星が明るく輝く7月の夜だったと話したことがあった。

 

「蛙がどうして人の言葉が話せるの?」少女は呟いた。

 

「助けて!助けて!!」と大小10匹の蛙が飛び上がり桶の淵にしがみついて

悲痛な目でリンダラーに助けを求めた。

 

「あなたたち、私に喋ってるの?」リンダラーは驚きのあまり開いた口が塞らなかった。

 

「そうだよ! 君に言ってるんだよ、お嬢ちゃん!」一番大きな蛙が少女に言った。

 

「嘘よ!私、絶対夢を見てるんだわ!蛙が喋れるなんて!」

リンダラーはそろりそろりと後退りをしながら自分に何度も呟いた。

 

「夢を見てるんじゃない、現実だよ。」さっきの蛙が念を押した。

期待するようにしっかりと彼女を見つめた。

「どうか俺たちを助けてくれ。 奴らは俺たちを殺そうとしてるんだ。

俺たちが蛙だからといっても 俺たちにもあんたと同じ命があるんだ。」

 

「助けるって言っても・・どうしたらいいの?」リンダラーはこれが夢か現実かわからない気持ちで朦朧となりながら尋ねた。

 

「俺たちをここから出してくれ!」

見るからにボスらしい大きな蛙が痩せた少女に言った。

「俺達をどこの貯水池でもいいから逃がしてくれ。そうすれば俺達はあんたへの恩を忘れないよ。」

 

リンダラーは 誰も教室にまだ戻ってきていないか左右を見渡し、そして決心した。

何匹も蛙が入った桶をこっそりと持ち上げ 急いで階段を下り後者の後ろへと走って行き、蛙達を寺の近くにある貯水池まで連れて行った。

 

「お嬢ちゃん、本当にありがとう。」蛙達は声を揃えて言った。

「あんたへの恩は絶対に忘れないよ。」

 

「気をつけてね。もうあなた達は無事だから私はもう行くわね。」

リンダラーは蛙の群れに手を振った。

 

あの日のことは後にで先生からぶたれたことで終わった。

同級生の友達が実験用の蛙がなくなってしまったのは彼女がこっそり蛙を持ち出して逃がしたからだというのを見ていたからだ。

それでも少女はそれはそれで良かったと思っていた。

少なくとも10個の小さな命を救えたからだ。

 

彼女はこの話は誰にも、両親にさえも話さなかった。

どうせ信じる人など誰もいないと思ったからだ。

そしてこの特別な能力もずっとあると自分も思わなかったからだ。

時々、家の壁の上にいるヤモリやマンゴーの木の枝の鳥が何を話しているのか進んで

聞こうとしたが、その声を聞き取ることはできなかった。

だが、聞こえる時は全ての動物達の会話を聞くことができた。

彼女は彼らが何を話しているのか全部わかったのだ。

 

・・この能力は自然と現れた。

この先、いつ現れるか誰にもわからない雨雲の中の雷のように・・。

 

「マジかよ?この子の父さんは若い女に気が行ってばかりで子供を放置して迷子にさせたって? なんてこったい。本当にひどいぜ。自分の子供より他人のことばかりよく見えて、こんな身体障害者の娘をまるで心配しないでいやがる」。

藤の木の枝に停まっている小さな雀はそう言いながら首を傾げた。

大きな鳥が停まっている枝に飛び移るまで リンダラーは注意深く彼らの会話に耳を傾けていた。

 

「まったくその通りなんだ。」大きな方の鳥は「この子の父さんは若い女といちゃいちゃしながら歩いて行って あ~~~~~ちの海賊山の近くにいるのを飛んで見てきたよ。」

 

リンダラーは その長く伸びた「あ~~~ち」という声につられそちらを見た。

 

背中の痣がズキズキするのが彼女にもわかった。

彼女がそうなるといつもいろんな動物達とコミュニケーションができるのだ。

 

「人間ってのには本当に呆れるよ。」小さな鳥は飛んで行く前にブツブツ文句を言った。

 

「この子のお父さんはどこにいるの?小鳥さん。」リンダラーはまだどこにも飛んでいかないでじっと枝に留まっている太った鳥に呟いた。

鳥はびっくりして藤の樹の下に立っている人間の女性を首を傾げて見た

 

土産店の反対側にある模型の山に顔を向けながら リンダラーに言った。

「あの海賊の山にいるよ。メイン道路に沿って歩いて行って右手に曲がると会えるさ。

色の白い男で背が高くて婚のスーツに茶色のズボンを着ている。」

太った雀は詳しく説明し そして素早く飛び去った。

 

障害者の少女は泣いてばかりいたので 長いスカートを履いた若い子の女性が木の上の

鳥と話しているのは見ていなかった。

 

「お嬢ちゃん。あなたの名前は何? 白雪姫のお姉さんに教えてちょうだい。

そうすれば保護者の人を探してあげるわ。」リンダラーは戻って優しく少女に尋ねた。

 

「アユミ」。少女はしゃくり上げながら答えた。

「怖がらなくて大丈夫よ、アユミちゃん」

リンダラーはしっかりと少女の手を握り

「お姉さんがお父さんのところに連れて行ってあげるから。」と言った。

 

少女は何も答えなかったが ぴたりと泣くのをやめた。

リンダラーを見つめる小さな顔は この女の人が自分を本当に保護者のところに連れて行けるのかとびっくりしていた。

 

「さあ あっちへ行きましょう。」リンダラーは来園者達と写真を撮る白雪姫の仕事を勤めるために戻らなければならない時間まで もう後数分しか残っていないことをすっかり忘れていた。 

彼女は遠くにある海賊野山を指さした。

アユミの車椅子を曲がった道に沿って押して行く時、

「あなたのお父さんはあっちの方にいるはずよ」と声をかけた。

 

「白雪姫のお姉さんは優しいわね。」

アユミは小さな手で涙を拭き、ガラス玉のように輝く目でリンダラーを見て 

出せるだけの笑顔を見せながら

「ありがとう。」と言った。

 

「でもあなたは どうして文房具店の前に来たのか お姉さんに話してないわ。」

リンダラーは 浮気者の少女の父親がどこにいるか探しながら、少女と会話をした。

 

「あたしもどこにいなくなったちゃったかわからないの。」アユミは首を振った。

「あたしは綺麗なボールペンが欲しいと言ったの。それで自分で車椅子でお店の中に入って 出てきたらいなくなってた。」

 

「ひどいわ。」リンダラーはタイ語で呟いたが 少女は耳が良かった。

 

「何? お姉さんは何て言ったの?」アユミは首をかしげた。

 

「いえ、何でもないわ。」リンダラーは慌てて言い繕った。

彼女と少女の周りは 手をつないで 湖に浮かぶ巨大な海賊船を眺めながら歩いていく人で溢れていた。

「お姉さんはいろんなことに文句を言ってたの。あなたは気にすることないわ。」

 

少女の保護者はどこにいるのか探している時、誰かの鋭い大声が周囲の人達を驚かせた。

 

「なんてこと?アユミ!!こんなところにいたの?!」

 

リンダラーは声の方を振り返った。

そこには雑誌のモデルのようなスタイルがいい美しい女性がいた。

その女性は 高そうな茶色のサングラスをかけ、背中まで届くひとつにまとめた長い髪、真っ赤に塗った唇、ループ状の持ち手の派手な赤いバックは赤い唇とロングスカートによく似合っている。

 

「アユミ、どこにいなくなっていたの? 叔母さんはとても心配していたのよ。

障害者なのにわきまえなく、こんな風に好き勝手に遊びに行って、どれだけ危ないかわかっているの?りょういちの一味に誘拐されて身代金を要求されるかもしれないのよ。

二度とこんなことしてはダメよ。」

 

たとえ優しい声で声をかけながらも 彼女の表情と眼差しはそれとは真逆だった。

その女性はリンダラーと少女の方に素早く向かってきて リンダラーを侮蔑するよう声で怒鳴りつけた。

「白雪姫!さっさとその汚い手を姪の車椅子から放しなさい!

誰に仕向けられてアユミに手を出してるの?!」

 

「なんなの?あなたは誰?」リンダラーは少女の車椅子から手を放そうとしなかった。

 

好奇心を持って見る人だかりの視線の中、引っ張り合いが始まった。

 

「私が誰かどうでもいいでしょう!」その女性は大声を上げた。

「あんたが姪を放す方が大事よ!それともあんたはアユミを誘拐して身代金でも要求しようというの?ああ、きっとそうだわ!白雪姫の仮装をしてるってことはお金がそんなにないのね!それでこの子を誘拐しようと思ってるのね?

それとも あんたは変装したリョウイチの一味?!」

 

「ひどい勘違いだわ!どこの何のリョウイチか私は知らないわ!」

リンダラーは相手が力いっぱい突き飛ばそうとした時、怒り心頭となった。

「あなたはいったい誰なのよ?!アユミちゃん、この女の人を知っているの?」

 

「アユミ!この白雪姫の女に私が誰か言ってやりなさい!」その女性は怒りで顔が真っ赤になった。

「どこかにいなくなってまうなんて馬鹿なことをして人に心配させて!

家に帰ったら 絶対お仕置きされるから!!」

 

「いやよ!いや。 帰らない!おうちには帰らない!!」アユミは大きな声で泣き出した。

「助けて!あたしを放して!あたしは帰らない!」

 

「放しなさい!」リンダラーも叫んだ。

「聞こえないの?アユミちゃんはあなたとは行かないって言ってるでしょう!」

 

「あんたは邪魔しないで!」綺麗なその女性は怒鳴った。

「家族の話をしているのよ。あんたみたいな他人が騒ぎを起こすんじゃないわ!」

 

「嫌よ。私は放っておかないわ。どうしてあなたがこの子の親戚だってわかるのよ?」

リンダラーは負けていなかった。

車椅子の少女が大きな声で泣く最中、二人の女が引っ張り合いをしていた。

 

「いい加減にしろ!一体何なんだ?!」

大騒動の最中、低音の男性の声が響いた。

それと同時に、体の大きなボディーガードが何人も走ってきて アユミの車椅子から手を放させるためリンダラーを引っ張り、もうひとりのボディーガードがアユミの車椅子を押すよりその背の高い色白の若い男の方が早かった。

 

「お前は誰だ?どうして俺の姪と一緒にいる?」濃い色のその目はリンダラーを睨みつけそっけなく乱暴な言葉使いで言った。

 

しかしリンダラーは 勢いよく仰向けに尻もちをついてその痛みのことで頭がいっぱいで その問いには答えられずにいた。

彼女は当惑しながら あちこち振り返って見た。

たぶん混乱の中、ボディーガードの一人に突き飛ばされて転んだのだろう。

 

彼女は さっきのポニーテイルの女がその顔立ちのはっきりした男に媚びた声で

「そんなこと聞いて、時間を無駄にすることはないわ。この白雪姫がアユミの車椅子を押して いなくならせたのよ。逃げる前にリエが見つけてラッキーだったわ。

あなたの人達に行って始末つけちゃいなさいよ、アキラ。

リョウイチの一味に雇われてアユミを連れ去ろうとしたのかもしれないわ。」

 

”リョウイチ”という言葉に その濃い顔立ちの男の顔を一瞬に一変させた。

リンダラーは体中痛みを感じつつ起き上った時、その男が 眉を潜め、目には嫌悪感が現れたのを見て取った。

 

「おばさん・・。」アユミはスーツ姿のその男に腕を伸ばし、「リエおばさんは勘違いしているわ。白雪姫のお姉さんはいい人よ。白雪姫のお姉さんは私がおばさんとはぐれているのを見て 探しに連れてってくれていたのよ。」と 皆がひどく勘違いをしているようなので慌てて言った。

 

「それじゃ何故いなくなってしまったんだい? おじさんは人にお前を探させていたんだよ。」

姪に優しく話しかけながらもその男は 白雪姫が起き上りスカートについた埃を払いながら起き上っているのにはちらりとも目を向けなかった。

 

「私はおじさんに言ったわよ。」アユミは弱弱しい声で言った。

「でも叔父さんはリエ叔母さんとしゃべっていて 私が話しているのが聞えなくて 

私が出てきた時には叔父さん達はいなくて ずっと待ってたけど全然戻ってきてくれなかった・・。」

「ああ・・アユミ・・ごめんよ。叔父さんは話に夢中になってて、

てっきりお前はボディーガードたちと海賊の山の方に行っているものと思ってしまっていたよ。」

 

この男は30才頭で 彼の体格は侍のように立派で 顔立ちは良く両頬に向かってうっすらと顎鬚があり、肌は白く、唇は厚く、健康的な鮮やかな色をしているのを リンダラーは見て取ったばかりだった。

 

体の大きなボディーガードの中に立っていると 彼はそこら中の遊園地の来園者というよりもヤクザの親分のように見えた。

 

「見つかったんだからいいわ。」リエは煩わしそうに吐き捨てた。

「さっさと帰りましょう。こんな問題が起こる遊園地なんかになんで遊びに来たのかしら。まったく時間の無駄だったわ!」

 

「さあ 帰ろう、アユミ」

その男はアユミのほうへ腰をかがめて リンダラーを怒鳴りつけた声とはまるで違う優しい声で言った。

そして立ちあがり、ボディーガード全員に手を振り車椅子を押して少女を保護するよう指示し、たくさんの見物人の中、リンダラーを困惑させたまま置き去りにし立ち去った。


4

 

泣きっ面に蜂・・誰が言ったか、とかく ついていないことは重なる。

今日までは、リンダラーはその言葉を信じたことはなかった・・。

 

身体障害者の少女の車椅子を押して保護者を探すのに没頭していたので、リンダラーは自分の仕事に間に合わなかった。

来園者の疑問と遊園地の中年の責任者の怒りの中、白雪姫不在のまま、おとぎ話のキャラクター達の記念撮影は行われたのだった。

 

「リンダラー、君は規則をひどく破ってしまったな」。

イサオはタイの女性に厳しい顔で言った。

彼はリンダラーがこんな風に職務を投げ出すようなひどい人間とは思わなかった。

「遊園地にどれだけ被害を与えたか君はわかるか?世界中から来た来園者はここに遊びに来ておとぎ話のキャラクターたちと写真を撮るのを楽しみにしていたのに、白雪姫がいなくなってしまったことが判ってしまった」

 

「すみません。本当に、、すみませんでした」。

リンダラーは涙が込み上げてきた。

彼女は起こった全てのことをできる限りイサオに説明した。

しかし 彼女にもそのことは妥当な理由ではないと十分わかっていた。

どれだけ言い訳をしても、どうしようもできない。

損害がでてしまった以上、責任者であるイサオは職務に則り、責任を取らねばならない。

原因は彼女が少女を心配するあまりショーの時間を忘れてしまったことにあるのだ。

事実、もしリンダラーがちょっと機転が利いていれば、その子を案内係に預けて保護者を探す放送をしてもらうのも可能だったのだ。

しかし、あの時彼女は不運にも何をすべきかまるで思いつかず あのような行動に出るのを決めてしまったのだった。

 

「謝罪しても、どうしようもないよ」。

イサオは怒りのあまりこめかみがズキズキと痛んだ。

「起こってしまったことは、どうしようもできない。私たちはアメリカの本社からひどく叱責されるだろう。あちらにはもう報告をされてしまった。

とても残念だよ、リンダラー。アメリカ側から君をクビにするよう命令があった」

 

イサオは、実際はリエの父親が白雪姫の役者をクビにするよう遊園地側にせまったのが本当の原因だとはリンダラーには話さなかった。

 

リンダラーは誰とでもない、遊園地の株主でもある大企業の令嬢と問題をを起こしてしまったのだ。

そのためイサオには選択の余地はなく、それほど大したことではない、初めて起こした失敗だったが、やむなくリンダラーをやめさせなければならなくなった。

 

「なんですって?」。

クビになるほどひどい失敗だとは思いもしていなかったので、リンダラーは愕然とした。

 

「本当に残念だよ・・」。

イサオはじっと俯いた。

「アメリカの遊園地からの勅令だ。私もできる限り庇ったのだがね・・。

これが君の最後の給料だ」

 

リンダラーを自分の娘のように可愛がっていた中年のその男は立ち上がり、お辞儀をして給料が入った白い封筒を彼女に渡し、沈黙したまま座るリンダラーを残し部屋を出た。 

 

我に返った彼女はゆっくりと立ち上がり、力なく部屋から出てきた。

前方に固まっていた3,4人の同じ役者仲間が心配してリンダラーの元へ集まってきた。

何があって、何故イサオと長い間、話をしていたのか知りたがっていた。

 

「どうだった?リンダラー。上司は何て言ったんだい?」ジュンは心配そうに尋ねた。

彼は そのタイ人の女性の青ざめた顔を見れば、よくない話だとは予想できた。

 

「どうだったかって?クビになったって想像できるわ」。

小百合は面白がって笑った。

イサオから彼女がなるべき白雪姫の役にリンダラーが選ばれた時から、そしてさらに

働き出してすぐに、彼女が密かに好意を寄せていたジュンがリンダラーに気があるのがわかってからというもの、小百合にとってタイ人のこの女は仕事や恋のことに関わらず、

すべての上でライバルだったのだ。

 

「そんなことを言うなよ。小百合」。

ジュンは彼女を大声で叱った。

彼の眼差しは非難に満ちていた。「そんな風にリンダラーに言うのはあんまりだぞ」

 

「彼女を責めないで」。

リンダラーは長くため息をつき言った。

「上司は私をクビにしたのは本当よ」

 

「何だって?」。ジュンが驚く傍ら、小百合は面白がって笑った。

 

「上司はやりすぎだ!」若者は顔をしかめ、「僕が上司と話をするよ。リンちゃんは何も悪いことはしていない。ただ女の子を助けて保護者を探してあげてただけじゃないか!」

 

「ありがとう、ジュン。」リンダラーは優しいその若者にお辞儀をして言った。

「アメリカにある遊園地の本社からの命令なの。 上司は私をなんとか助けようとしてくれたけどダメだったのよ。」

 

「そんな・・リンちゃん。」数人の友人たちは揃って顔をしかめた。

 

「仕事を投げ出した私のせいよ。それで遊園地に損害を与えてしまったのだから。」

リンダラーは気丈に顔を上げて言った。

「私も起こしたことに責任を取らなきゃ。だから悲しまないでね。上司は正しいことをしたわ。もしこうしなければ、そのうち誰も彼もが私みたいに仕事を投げ出して罰っせられないなら 私たちの遊園地は大変なことになってしまうわ。」

 

「まあ!」小百合の美しい顔に満足気な笑みが浮かんだ。

「あなたと知り合ってから今日は一番いいことを言ったわね!ともかくクビになったのだから あなたのこれからの幸運を私は祈っているわ。」

 

「ありがとう、小百合。あなたも元気でね。」リンダラーはジュンと他の友人のところに行く前に 小百合と仲直りの会話をした。

 

「それじゃ、さよなら、みんな。もし運がよければ私たち、きっとまた会えるわ。」

 

顔には なんとか自分自身を強く保つために笑顔を作っていたにせよ、実のところリンダラーは起こったことを自覚できないでいた。どうやって列車に乗って小さな借家に帰ったのかさえもほとんどわからなかった。

枯れた落葉を携え優しい風が吹いてきても彼女は部屋の前に立ち尽くしていた。

重苦しさが心を支配していた。

 

2つ目の不運が彼女に訪れるのにはそう時間はかからなかった。

しかもそれは彼女があまりお金を持っていない時と意地悪おばさんと名づけた家主の娘である夏子に何日間も家賃の支払いを延ばしてもらっている時だった。

夏子の悪名は広く噂されている。誰かが家賃の滞納をすれば 彼女は体格の大きな残忍な顔立ちの部下を部屋に立ち入らせ賃借人の荷物を家の前に運び出させるのだった。

懇願したとしても何の役にも立たず、ひどい目にあわされるだけだろう。

そのため 夏子の家を借りている者達は 家賃の支払いを厳守しなければならなかった。

彼女がどれほど残忍でも、ここのところの東京の物価は非常に高く、夏子の家のように地のりがよく、安い借家を探すのは簡単ではないので、賃借人のほとんどは彼女の家を借りたいと申し出ざるを得なかった。

 

彼女への家賃をリンダラーのようにかつて長く滞納した者はいない。

慎ましいタイ人女性であることで夏子はリンダラーには寛容であり、また 遊園地からの給料が出れば リンダラーはその意地悪おばさんに家賃を支払うようにはしていた。

しかし、2ヶ月の家賃の滞納をしてしまい、 夏子は今月末までにはそれを支払うよう言い渡していた。

実際、もし彼女が今月末まで遊園地で仕事をしていれば、夏子に滞納している2ヶ月の家賃と現在の家賃を足して支払うお金を揃えられたが こんな風に突然仕事を辞めさせられしまっては リンダラーはまたお金の工面に苦労をするのは必至だった。

 

大学の新学期が始まるまでにあまり時間もなく、そして住居費や生活費、登録費用、書籍代など様々な支払いも多々あった。

両親のお金をあてにはできない。タイで勉強する弟妹達への両親のお金はそうするには

足りないからだ。

 

リンダラーは知り合いのタイの学生の友人に電話をしてみた。

お金の話を口にした途端、友人たちは即電話を切った。

それは貸せるお金などないという意味そのままだった。

 

彼らとの電話を切った後、彼女は一人ため息をついて座り込むしかできなかった。

彼女が日本に勉強をしに来て5年、大学の新入生が来れば リンダラーは彼らをよく世話をしてやった。

空港にまで迎えに行ってやったり、さまざまな情報を与えてあげたりなどの助けになってあげたおかげで彼らは日本での生活に順応できるようになったのだが、彼女が助けを必要とする時に、彼らはそれをいとも簡単に拒否した。

しかし何と言っても お金の話はとてもデリケートな話である。

かつてはお金を貸してくれた友人もいたが、リンダラーが何度もお金を借りるようになるや、彼らはそのことに呆れたようでもあった。

そしてどんなに気の優しい友人でさえも リンダラーにお金を貸すのに応じないため

彼女を避けるようになってしまった。

リンダラーも新しい仕事を見つけない限り 今の状況では返済のためのお金のあてはない。

 

風呂からあがってからも 窓辺に座りため息をつくしかなかった。

夏子の借家には10部屋あり リンダラーの部屋は2階にある約6畳の部屋だった。

彼女は星が無数に輝く夜空をぼんやりと眺め、心の中で天使がこの絶望しかけている自分を助けに来てくれるのを密かに祈った。

窓から風がそよそよと吹き込み、風に混じって不思議な甘い香りがした。

このような甘い香りをかつて嗅いだ事がなかったリンダラーは眉を顰めた。

顔を突き出してその香りが何からするのか 見つけようとしたが そこら辺には何の花も見当たらなかった。

私がお祈りをしたので天使がお祝いを言ってくれたのかもしれないわ・・・と心の中で密かに思った。

 

この夜、リンダラーは綿の黄緑の浴衣を着ていた。

生地の柄はクリーム色の花が100年受け継がれた織物技法により作られ、現在でも広く織られている花菱文様と呼ばれる幾何学模様と交互に染められたものだった。

リンダラーは家にいるとき、浴衣を着るのが好きだった。

着心地がいいということ以外に 安いというものあった。

彼女はこの黄緑の浴衣を大学の裏の小さな商店で買い、もう何年も着ているが 生地も色も買った当初のように綺麗なままだ。

今日までまだ着物や浴衣を保護している日本人を羨ましがらずにいられない。

リンダラーの考える保護とは博物館の中での保護ではない。その国の人々がその国独自の象徴でもある衣服をいまだに着るのを好んでいるというものだ。

もしタイ民族衣裳を着るのがタイの人々の間で日本人が普段でも着物を着るのと同じように タイの衣裳を来て遊びに行ったり出かけて行ったりするほど流行っていたらどれほどいいか。

 着物を着た女性が人々や旅行者に混じって百貨店の中を歩いたり電車に乗ったりするのを見るのはとにかく珍しいことではない。

 

そんなことをあれこれと 空腹でお腹がグーグー鳴るまで夢中で考えていた。

彼女は 最後のまとまった残りのお金が入ったイサオがくれた給料袋に目をやった。

銀行に預けていたお金はとうの昔になくなっていた。

一生懸命働いて 次年度のためのお金を貯めだしたばかりだったのに ひどい事が先に起こってしまった。

彼女は自分自身にまず今日からお金を節約するように、と言い聞かせ、そして階下へ降りて行った。

小銭をインスタントラーメン販売機に入れ、自分の部屋に戻り、ラーメン器にお湯を入れた。そしてラーメンを箸でつまみ空腹を満たした。

「はあ・・。」

安いものであろうと高いものであろうと お腹に入れてしまえばどちらも同じように満腹にできる。

少なくとも今日はどうしたらいいのか心配する必要はない。

リンダラーは何度目か数えきれないくらいした溜息を軽くついた。

満腹になり これからどうしたらいいのかを考える力も出たが 今は瞼が重たくなってきた。もう休ませてもらいことにしよう、なにかの問題があるにせよ、明日にあらためて考えよう。

父親は彼女に頑張るよう、「明日は今日よりもいい日になるはず」・・といつも教えてきた。

そして彼女もそう信じ、こに父の言葉をいつも教訓としてきた。

 

 その次の週全部を、リンダラーは職探しに充てた。

毎度 家賃の支払いの期限が近まる中、家主の意地悪おばさん・夏子から隠れるようにしながら・・。

 

東京は大都会で仕事の選択肢はたくさんあるが 自身に見合った仕事を見つけるのは

容易ではない。

仕事を必死に探している間でも いろんな波乱があった。

料理店の仕事に応募をしても諦めるしかなかった。何故なら彼女はまるで料理ができないのだ。 オムレツを作っても卵をフライパンにこびりつかせてしまうようでは 彼女を雇う店がどこにあるだろう。

勉強をしてきた整体の能力を生かせる仕事を探した時でも、店主はタイ式マッサージ師を必要としていて彼女はそれについては精通していなかった。

また ある場所は、表向きはタイ式マッサージ店を掲げているがその裏では風俗のサービスをする店であったり これまで何日も目まぐるしく電車を乗り降りして仕事を探してありとあらゆるところを歩き回ったが 自身にふさわしい仕事は見つからずため息をつくしかなかった。

 

力なく家路についた。

リンダラーには決して簡単に負けたりしない頑張り屋の血が流れていたとしても 

体も心も疲れきっていた。

寒さに加え強い風が吹いてきた。

リンダラーは腕組みをしてが 寒さは体の中まで届くようだった。

夕日の残照が淡くなりはじめ、まもなく夜の時が大都会に拡がるだろう。

東京の片隅に 絶望の淵にいる小さな女性が一人いるのを誰が知るだろう・・。

 

借家についた時、リンダラーの疲労感は一気に吹き飛んだ。

背後に立つ夏子ともに体格の大きな数人の男達が自分のものとわかる衣類や家財道具を 家の前に運び出しているのが見えたからだ。

 

「おばさん・・これは何なの?」

リンダラーは驚きで顔が青ざめていた。

彼女は大家である太った女の元に走って行き、震える声で尋ねた。

「どうして私のものをこんな風に持ち出せるの?」

 

「何故 できないって言うんだい?この家は私のもんだよ。そして私はアンタに対して長いこと寛容であり過ぎたしね。」夏子は文句有り気にリンダラーを睨みつけた。

 

「でも 私はおばさんにお金を振り込んでいるわ。」タイの女性は言い返したが 

内心は取り乱していた。「2ヶ月分の延納があるだけよ。」

 

「まだ2ヶ月の未納があって今月分を含めたら3ヶ月だよ。」

この手の話は夏子は決して見逃さない。

「そして アンタは絶対払えない、仕事をクビになったんだし!」

 

「仕事をクビになった」リンダラーは目を見開いた。

わざわざこの件は内緒にしていたのに・・「おばさんは何故知っているの?」

 

「遊園地で一緒に働いていた友達がアンタを訪ねてきたからだよ。」

夏子はわざと媚びた声にして「ハンサムな男でジュンという名前の男は何だい? なんで来たのかと怪しく思ってね。アンタと遊園地で会わないのは何故なんだい?ってね。

だからその子に聞いてみたんだよ。そしたらほぼ1か月前に遊園地をクビになったっていうじゃないか。なんてことだい。私に言おうとしないなんて上出来だよ。今度は踏み倒そうってでも言うのかい?」

 

「違うわ。私はそんなこと考えたこともないです。」リンダラーは心の底からそう言った。「おばさんは私を誤解しています。」

 

「絶対、間違いないね。私はね、アンタみたいなのにたくさん会ってきたんだよ。

あれこれ約束しておきながら ある時に何も言わずに荷物を持ち出して逃げていきやがる。」夏子は唇を噛んだ。

「もうこれからアンタには寛容にはなれないね。」

 

「ちょっと待ってください。おばさん。」リンダラーは驚いて眉を上げた。

「ジュンが訪ねてきたとおっしゃいましたが、彼はどうして来たのですか?」

 

「知らないね、何も言わなかったから。」意地悪おばさんは肩を揚げて言った。

「でもそんなことはどうでもいいんだよ。一番重要なのは アンタはこんなふうに仕事が無くなって延滞している家賃をどこから持ってきて払うのか、一番いいのはアンタがとっととここから出て他に行くことだね。」

 

「でも私は期限通りにおばさんに支払いをすると約束してあるわ。まだその約束した期限の日は来ていないわ。」

リンダラーは愕然とした。もし家を追い出されてしまったら今夜どこで寝ればいいのか。その不安で 黒くて長いキャデラックがゆっくりとやって来てアパートの前に静かに止まったのに気がつかなかった。

 

「そんなこと知ったことかい!とにかく私はこの家財道具を差し押さえておくよ。」

「アンタは私の家から出て、大急ぎで支払いの金を探してきな!もしできなければ、この荷物は間違いなくゴミ箱行きだよ!アンタはまだ利子を含めて3ヶ月の家賃の延滞があるのを忘れんじゃないよ!とっとと支払いの金を探してきな!」夏子は怒鳴った。

 

「でももう夜だし・・おばさんは私をこんな風に急に追い出したりしないで。私はどこに行けるっていうの?お願いだから1日か二日、新しい家が見つかるまでここに居させてもらえないかしら?」

リンダラーはすっかり動揺してしまっていたが 夏子が気持ちを和らげてくれるよう懇願した。

 

「だめだね!とっとと出て行きな!黙って出て行くか、それとも私の子分につまみ出させてやろうか?」意地悪おばさんの残忍さは言葉のとおり揺るぎはなかった。

 

「そこまでひどいことをするほどのことじゃないですよ。夏子さん。」

美しく透き通った誰かの声が聞こえた。

 

リンダラーと夏子は揃って家の門の方を振り返った。そして二人共、大きな傘の下に立つ、清潔な白い着物を着たそれはそれは眉目秀麗な男性を見て驚いた。

まるで空の星のようにその立派な風貌の男性の着物の中に光るキラキラガが焼く粒があるみたいだった。

街灯の照明で男性の美しい顔が見えた。

光の影のいたずらで もしかしたら自ら光を発しているかのように 彼の体の周りに輝く光がリンダラーには見えただけかもしれない。

彼女が瞬きをした瞬間、その光は消え、あるのはその清らかな顔と幾千にも輝く星のような美しい目だけだった。

 


5

「あ・・あんたは誰?何、邪魔しようっていうの!?」

夏子は喚こうとしているようだったが、狭い路地に現れた眉目秀麗な男性に対して言葉が出ないようだった。

 

「お邪魔をして申し訳ございません。」その男性は穏やかな声でそう言いながら、

慈悲に溢れた眼差しでリンダラーに目を向けた。

「ですが、お邪魔しないわけにはいきません。この子が仕事を失ったのは私のところの者のせいだからです。」

 

男性のその最後の言葉とともに リンダラーは後部座席のドアを運転手が開け、もうひとりの背の高い男が降りてきたのが見えた。

そして、その男の顔がよく見えたとき、彼女がまさかこの男と再会すると思っていなかったので 唖然とした。

 

「あ・・あなた!」リンダラーは彼を指差しながら言った。

彼女はその男のことをしっかりと覚えていた。それはアユミの叔父だったのだ。

彼こそ、白雪姫が来園者達と写真を撮るのに間に合わなくなり、そして仕事をクビになった最大の原因なのである。

今日、彼はこの前のような服ではなく、胸元に白い鶴の刺繍がされた袖の広い黒の着物を着ていた。

彼の濃い色の着物が、後ろに立つと最初の立派な男性の着た白い着物とコントラストをなしていた。

 

「いったい何なの?わけがわからないわ。」リンダラーは眉をひそめた。

 

「私は アキラがリエと楽しみに耽って、アユミを一人置き去りにしたことで あなたが仕事を失ったというのを知っています。あなたはアユミの保護者を見つけるのを助け、せっかく見つけたのに その保護者から非礼極まりないひどい言動を受け、そのせいで仕事に戻るのが間に合わず 解雇になってしまった。」

その男性は淡々とした声で言い、黒の着物を着た男を責めるように尻目で見た。

 

タイ人の女性はその言葉を聞いて 唖然とした。まさか相手がこんなに自分に起こったことを詳しく知っているとは思いもしなかったからだ。

 

その男性は彼女を長いことじっと見つめ続けていた。

それはまるではるか遠くの誰かを回想しているようだった。

リンダラーは何となく照れくさくなり顔が一気に赤くなった。

彼女もこの男性のことをずっと知っているような感じがしたからである。

 

私はこの人のことを知っているのかしら・・?リンダラーは自問した。

どこかで会ったことがあるのかしら・・?

 

それは誰にも答えられない問だった・・。

 

「そういうわけで、アキラがこの起こったことの責任を取らなければなりません。」

眉目秀麗なその顔に笑みを浮かべつつ、黒い着物の男性に振り返り 頷いた。

「さあ、アキラ。何か彼女に言いたいことがあったら 言いなさい。」

 

「僕は・・。えーっと・・。」アキラと称するその若者の顔は真っ赤だった。

それが怒っているからなのか、恥ずかしいからなのか それともそれら二つを併せた感情からなのか リンダラーはうまく言えなかった。

 

「僕は 宮川家35代目嫡男・宮川アキラです。

あなたにした私の非礼をお詫びいたします。ミス・リンダラー。」

リンダラーと夏子が呆気に取られている最中、彼はリンダラーに深く頭を下げ言った。

 

「え・・と・・私・・。」リンダラーは呆気に取られるばかり アキラがさらに言葉を続けている間、何も言えなかった。

 

「私は起こったことの全ての責任を取ります。」

 

「私は・・えーっと・・」リンダラーはまだ何も考えられずにいた。

何もかもあっという間の出来事で まだ呆然としたままだった。

しかし、我に返ったリンダラーは「そこまでする必要はないわ。私はあなたを許して、そして私達はさよならする、そういうことにしましょう。」とやっと口にできた。

 

「なんですって?!それじゃあ、あなたが延滞している2ヶ月分の私の家の家賃はどうなるの?リンちゃん! 踏み倒すなんてできないわよ!」

それでは困る夏子が言った。

 

「いくら要るのですか?」白い着物の男性は哀れみの眼差しを向け淡々と尋ねた。

 

「ちょっと考えさせて。延滞している家賃は利子と、水道費と電気代、部屋から荷物を運び出させる人間を雇う手間賃と、口を酸っぱくして家賃を催促しないといけなくかった精神的苦痛の損害賠償費を足して・・と。」

夏子は電卓をスカートのポケットから出し、一心不乱に必要な金額を真剣に計算した。そして最終的に必要な金額が出ると 意地悪おばさんは電卓を相手に差し出して見させた。

 

「了解しました。」男性は頷き、アキラに何かを囁いた。

 

アキラはカバンから小切手を出し ペンでササッと名前をサインし 夏子に渡した。

 

「どうも ありがとね。」意地悪おばさんは受け取ったお金に満足したのか 普段より優しい声でそう言った。

 

「これであなたもここに住み続けてもいいわよ、リンちゃん。」

 

「この子はこれからもうここにはいません。彼女は私と一緒に行きます。」白い着物の男性が毅然と答えた。

 

「なんですって?」今度は リンダラーと夏子が揃って声を上げた。

 

リンダラーは自分を指さし、「私が?」そして背の高い男性を指さし、「あなたと一緒に行く?」と尋ねた。

 

「そうです。」男性は頷いた。その顔にはまだ穏やかな笑みが浮かんでいた。

 

「どこに行くの?それもどうして?」タイ人女性は憮然とした表情で言った。

 

「あなたはアルバイトを必要としているのじゃないのですか?私達はあなたにしてもらいたい特別な仕事があります。」彼はまるで彼女の心が読めるようだった。

 

「僕の姪のアユミを世話してくれる人を必要としている。」リンダラーがこれ以上混乱する前にアキラが補足した。

 

「私達はあなたが理学療法士だと知りました。 アユミは7歳の時に交通事故に遭い、2年を過ぎてもまだ普通に歩けずにいます。

ひとつには祖母と叔父が甘やかし過ぎて アユミに自分自身で何もさせようとしない。」男性はアキラの方に責めるような視線を送った。

 

「そういうわけで、僕達は 君の大学が休みの期間、アユミの先生兼世話人として君を雇いたいんだ。」アキラは補足説明をした。

 

まあ、なんということ・・リンダラーは唖然とした。いったいこの人たちは何者?まさかヤクザじゃないかしら?どうして私のことをこれほど詳しく知っているの?

 

「理由を言ってちょうだい。どうして私があなた達と行かなければいけないの?!」リンダラーはツンとして言った。

「なんで私がこの仕事を受けなければいけないの?!」

 

「それはあなたがいい人だからですよ。」

白い着物の男性の答えにリンダラーは二の句が継げなくなった。

「そしてあなたの心はとても綺麗だから ひとりの小さな女の子をまた歩けるよう助けてあげたいと思っているはずです。」

 

「アユミちゃん・・。」リンダラーは肌が清らかに白く、瞳の底には悲しみを秘めた少女のことを思い出した。

 

「あなたが勉強ができなくなるほど 時間の迷惑はかけませんよ。」

リンダラーが迷っているようだったので 男性はさらに言葉を続けた。

「3,4ヶ月もあれば あなたはアユミをうまく歩かせる訓練ができるに十分でしょう。そしてあなたもお金が増えれば勉強を続けて卒業もできるでしょう。それでどうでしょう?応じてもらえますか?」

 

男性がリンダラーと話している間中、アキラは他の方を向いて 彼女と目を合わせようとしなかった。

彼は無表情だったので 心の中で一体何を考えているのか見当がつかなかった。

 

「私は・・。」彼女はこんなに困った状況に陥ったことはなかった ので困惑した。

父親は好機はそう度々訪れるものではない、それでももし、その好機を自分が掴まなくても後悔はするな、と教えたことがあった。

 

「それで私はどこに仕事に行けばいいの?あなたの家は東京のどこにあるの?」

 

「私達は月の谷に住んでいます。」男性の答えはまるでリンダラーの心に雷が落ちたようだった。

聞いたことが信じられないというように、彼女はびっくりし、目を大きく見開いた。

 

「なんですって?」リンダラーは大きな声を出した。

「伝説の月の谷・・そこはとても遠いところにあるのじゃないの?」

 

「月の谷は京都から約1時間のところにある。東京からは6時間ほどかかる。」今度はアキラがリンダラーに話した。

「もしこの仕事を受けるのに合意するなら 僕達は今夜君をそこに連れて行く。」

 

「いいわ。私はあなたたちと行くわ。」リンダラーは即了解した。

彼女自身も 相手の申し出をいとも簡単に快諾したのに驚いた。

たぶん彼女の聞き馴染みのあるお気に入りの物語の「月の谷」という言葉だったからかもしれない。

いつか必ずそこへ行こうと夢見ていたから日本への留学を決めた理由の一つでだったのだ。

そのチャンスが思いもよらず今訪れようとは誰が考えただろうか。

 

月の谷への旅は突然訪れた。

リンダラーは服と日常必需品を安いカバンに詰め、余った日常品をアキラは夏子に預けた。問題を防ぐため意地悪おばさんには彼女が満足するレートで保管代を支払っておいた。

 

彼女を月の谷に案内する車は宮川家の長いキャデラックだった。

3つに分かれた座席は2人の男達とくっついて座らなくてよかったため、とても快適だった。

 

高級車は暗闇と新緑が芽吹く木々の間を走り抜けて行った。

窓の外には月の薄明かりに長く連なる山々が見え その車に追従する2台のボディーガードの車が見えた。

 

彼らは一体、何者なのかはわからなかった。

どこに行くにもボディーガードがたくさん付き添っていて、もしかしたらヤクザなのだろうか?とリンダラーは思ったが、二人の男には刺青がないのでたぶん違うだろう。

 

空いっぱいに輝く星が 否応なく 彼女に自分の背中にある小さなアザのことを思い起こさせた。

そのアザは背中にあるので普段は見られない。

しかし、見ようとすれば鏡に映せば それが5辺に分かれて小さな星に似ているのがわかる。

 

「あなたはこの世に生まれた天使なのかもしれないわね。」機嫌がいい時、母親はいつもリンダラーにそう話した。

 

「お母さんはどうしてそう思うの?」リンダラーもだいだいいつもそう尋ねた。

彼女は子供の頃から おとぎ話のような話を聞くのが好きなのだった。

 

「だって、あなたが生まれた夜・・」母親は空を見上げた。

「あの夜、とても綺麗な大きな星が空から落ちて来たのよ。」

 

「あれは、7月の十五夜の夜だったな・。だから父さんはお前にリンダラーと名付けたんだよ。」父親も話に加わってきた。

 

「わかった?」母親は軽く彼女の背中を指でつついた。「だからあなたには星の形のアザがあるのよ。」

 

「それって綺麗?私も見たいわ。」あの日、少女だったリンダラーは首をひねってそれを見ようとした。

 

「首を捻ってしまうぞ!」父親は面白がって笑った。

「ほら、もし見たいならここに来て見なさい。」父親は彼女を鏡の前に引っ張り振り返らせた。

 

鏡がリンダラーの背中にあるアザをみせた。

彼女の背中のことは 彼女自身と両親、そして弟妹以外、誰も知らない 家族だけ知る話だ。

 

たとえどこにあるか知っていても それは背中にあるのでリンダラーは自分のアザをはっきりと見たことはなかった。

 

動物の声が聞こえる時いつも、いわゆる動物と会話をする時いつも そのアザが まだそこにあると知らせるために疼く。

彼女をAnimal whispererにしている理由の一つなのかもしれない。

 

彼女は何故今夜、星の形のアザのことをまた思い出したのだろうかと とても不思議に思った。

もしかしたら、月の谷に向かうこの旅、、曲がりくねった山の斜面、澄んだ夜の空に見える満天の輝く星達、のせいかもしれない。

 

高級車に雇い主と一緒に乗っている時、彼女は彼のことがさらにわかった。

リンダラーは アキラの元祖は戦国時代の将軍であったというのを知りわくわくした。

日本がまだ分割され、たくさんの将軍家が群雄割拠し、その国の民を治めていた時代の将軍家の一人がアキラの先祖だったが、国の統治の仕組みが変わり、その将軍家も徐々に消滅して行った。

 

やっぱり・・。リンダラーはつぶやいた。

アキラの顔つき以外でも その風貌は威厳があり、立派な体格で背が高くがっしりしている。

 

「私達と一緒に来てくれるのに同意してくれて感謝しています。」白い着物を着た男性が口を開いた。

「アユミはあなたの助けを本当に必要としています。祖母と叔父が甘やかし過ぎてよくない。」

 

彼の顔立ちが何歳なのかわからないくらい若々しいというのをリンダラーはっきりと見て取ったばかりだった。

その清らかな顔に浮かぶ笑顔は慈愛にあふれたとても優しいものだった。

一方、黒い着物の若者は いつも神経質でいるようだった。

 

「2年前、アユミの父のアキハラは山で交通事故に遭い、彼と彼の妻はその場で亡くなった。アユミは奇跡的に助かったが、命を取り留められないほどの重傷を負った。」

リンダラーの向かいに座る男性は彼女にアユミの怪我の症状についてわかるように話した。

 

「手術の後、アユミは回復したが 歩くことはできない。」彼は話を続けた。

「医者と看護婦はアユミに歩行訓練をするよう強く勧めたが、彼女は泣いて嫌がった。アキラとミキは彼女を可哀想に思い、甘やかして歩く練習をさせない。それで今日に至るまでまだ車椅子に座ったままでいる。」

 

「それはよくないわ・・。」リンダラーは顔をしかめた。

「通常、手術から回復した患者には 私達は患者の体が早く回復するためになるべく早めにリハビリを施します。もう2年も経っているのにアユミはまだ歩けないというの?」

 

「それは彼に聞いてください。」

男性は含み笑いをしながら、窓の外の景色を眺めているアキラに顔を向けた。

 しかし、アキラは耳を逆風にさらしていたので 同乗者の他の二人が何を会話しているのかまるで聞いていなかった。

 

「どうなの?何故アユミは歩こうとしないの?」リンダラーは振り返りアキラに興味津津に尋ねた。この情報は彼女が今後アユミを世話するうえで大切な部分だった。

 

「痛いからだ。」アキラは短く答えた。「アユミは筋肉が痛むから歩きたがらない。それが判らない人間がアユミを無理矢理歩かせようとするのさ。」

 

「まあ!」リンダラーは眉をひそめた。「もし痛いならお医者さんに診せなさい。どうして医者に診せないでアユミがまた歩けるようになるために痛みの症状を改善できるの?」

 

「僕は姪に強要したくない。」アキラはあっさりと答えた。

「今、強要すべきとは思わない。アユミはまだ小さい。体だって小さいのに。」

 

「”親の甘茶が毒となる”そのものだわ!」リンダラーは呟かないではいられなかった。

 

「なんだって?」アキラは地獄耳なのでタイ人女性が何か文句を言っているのがわかった。

 

「私はあなた達がしていることはアユミちゃんの何の助けにもならないと言ったのよ。」彼女は彼女の性格通り正直に言った。

「それどころか、無意識に彼女をダメにしてしまっている。」

 

「君は今、僕と僕の祖母を非難しているんだぞ。」

アキラは後部座席に威風堂々と座る男性を上目使いに見た。彼はその男性を直接非難する勇気はなかったので、論点をずらし、代わりにリンダラーを責めた。

 

「私はただ聞いたことで言っただけよ。

予め言わせてもらうわね。 もし貴方達がアユミちゃんの世話役として私を雇って 彼女がまた歩けるようにリハビリする仕事をさせたいのなら、私のやり方には干渉しないでね! わかった?」

リンダラーの声は真剣だった。

タイにいた頃、彼女はいろんな患者に会い、家族中の者が甘やかしてばかりで、言うことを聞かず何もしようとせずにいたため 結局 そうひどい病気でもなかったのに 歩行できない段階にまでなった子供がいた。

 

「理解できないね!」アキラは顔をしかめた。「アユミは僕の姪だ。どうして君の教え方について口をはさめないんだ?!」

 

「だって、私はその道に精通した人間よ。でもあなたは違うわ。」リンダラーは折れずに言い返した。彼女にははっきりとした考えがあった。

「あなたが私を雇ったのなら、この3カ月は私に精一杯役目を果たさせて。

私はまたアユミちゃんが歩けるように頑張るわ。 でももしあなたが邪魔をして私の仕事に常に干渉するなら 結果は保証できないわよ。」

 

「僕は君みたいな頑固者に会ったことがないよ!」アキラはぶつぶつ言った。

 

「気が変わって東京に連れ戻してもいいのよ!」リンダラーは優位に立った気持ちになった。

 

「ほらほら・・もう良いではないですか。」ずっと言い争う二人の話をじっと聞いていた白い着物の男性が話を裁った。

「あなたがアユミを習得してきた知識で全力で面倒見てくれるのでしたら、私は宮川家の者達全員にあなたの仕事を絶対に干渉させないと約束します。他に不審な点はありますか?光さん。」

 

「え?」リンダラーはキョトンとした。「あなたは私を何て呼んだ?」

 

「光」男性は優しく答えた。「私はあなたのことを”光”と呼びました。あなたの名前の意味は”星”ではないのですか?」

 

「そうよ。」リンダラーはうなずいた。彼女は日本語で”光”とは「星の光」という意味でタイ語での彼女の名前の意味と同じだと たった今わかった。

 

「それであなたは・・?お名前は何と言うの?」彼女も尋ねてみた。

ほぼ半分の道のりになるまで会話をしてきながら この眉目秀麗な男性の名前が何なのか知らないままでいたとは・・。

 

「星の皇子です。」彼は短く言った。

しかし「皆、私のことを星の皇子と呼びます。」と強調した。

 

「星の皇子だ。」アキラは振り返り 白く清潔な着物を着た男性の正式名を彼女に対して復唱した。

 

「星の皇子・・。星のプリンス。」

リンダラーは相手の名前の意味を呟いた。それと同時に同乗する全員が偶然にも同じ意味を持っていることに驚かずにはいられなかった。

 

アキラ.. 明るく輝く光

リンダラー・・星の輝き

星の皇子・・星の国の王子

 

何と驚くべきことか!


6

東京から月の谷への旅はあっという間だった。

しかもリンダラーが考えていたよりずっと順調だった。

長い高級なキャデラックの性能か または 便利な舗装された道のおかげであるのは十分に理解できる。

時にキャデラックは曲がりくねった山道を登って行かなくてはならなかった時でさえ、彼女は目眩も車に酔うこともなかった。

 

車は走り続け、月はだんだんと高い空の真ん中へ移動していった。

夜空の星達はキラキラと輝き、松の並木がそよそよと心地よく吹く風に合わせて揺れている。

 

千代の松 

สนสูงใหญ่ใบเขียวพรียวพรั่ง(千代に緑の松の大木)

 

葉隠里に 過ぎぬるも

กลางขุนเขาแห่งความหลังพรางพฤกษา(山奥で 草木に隠された過ぎ去りし日々)

 

遥かな星の 

ดาราน้อยจากแดนไกลฝ่าลมมา(遠い彼方から小さな星が 風をきってやって来る)

 

待つ時来る 

แสนอุษา แสนทิว่า แสนราตรี (幾朝 幾昼 幾夜を超えて)

 

車が通っていく美しい景色に夢中になっていると、周りの雰囲気と溶け込んだ美しく心に沁みる歌声が聴こえてきた。

それは低音の柔らかい声で、聞けばうっとりしてしまう。

リンダラーは鈴のように美しい声で歌っている男の人が星の皇子だとわかり唖然とした。

なんと予想外なことか!

 

彼はリンダラーの向かいの座席の背もたれにもたれかかって座り、気持ちよさそうに軽く歌を口ずさんでいる。

彼女を見つめる瞳は暗闇の中でキラキラと輝いている。

アキラもうっとりと聴き入っている一人だが 黒い着物を着た若者の表情は旅を始めた頃よりもリラックスして 神経質な感じではなくなっている。

その歌声には驚く程の魔法があるだろう。リンダラーも 白く清潔な着物を着た男性の歌を聴いて、すっかりリラックスをしてしまった。

星の皇子がまだ歌を歌い続けている間に、彼女は気持ちよさそうに目を閉じ、 いつの間にか眠ってしまった。

 

夢の中は、彼女の周りには美しい色に溢れ、キラキラと輝く星があり、まるで天国の中にいるようだった。

音楽があらゆる方向から聞こえ、歌の歌詞は星の皇子が歌う歌と同じだった。

歌詞は知らない言葉で、まるで理解できなかった。

次の瞬間、琴を弾く女性の姿が見えた。

その姿を見たとき、リンダラーはびっくりした。その女性の顔が彼女にそっくりだったのだ。

 

7月の星の姫・・。

 

リンダラーの頭上で誰かの声がした。

 

その姫・・それは 鶴の神が愛する7月の星の姫・・その人だと?

 

夢に見るほどあの神話に憧れていたなをんて・。しかも、自分自身を7月の姫にして夢に見るなんて。

 

彼女にそっくりとその姫の周りには、虹色の結晶が煌き、光となって輝き、また彼女の微笑みは周囲を明るく照らしている。

 

リンダラーは眠りから目覚めたくないと思った。

 

しかし、その美しい雰囲気にうっとりしてすぐ、リンダラーは意識を取り戻し飛び起きた。

アキラが車中に響くくしゃみをし、彼女をたたき起こしたのだ。

彼女が文句を言おうとするもより早く、星の皇子が言葉を発した。

 

「光さん、どうですか。あれが月の谷ですよ。」

滑らかな長い指が前方を指した。

前方を見ると、そこには今まで見た中で一番美しい景色が広がっていた。

 

山に囲まれた小さな町で その真ん中には月の谷を二つに分ける小川が流れている。

民家が小川の両岸に建てられていて、真ん中には緑の松並木があり、日本の昔風の民家の窓からの明かりが 誰かが黒の絨毯にたくさんのダイヤモンドの粒をふりかけたように明々と光を放っている。

遠くの小さな山には 朱色の鳥居が連なって並ぶ神社が見える。

 

「なんて綺麗なのかしら。」彼女はつぶやいた。「今まで見たどの街よりも綺麗・・。」

 

「君はこんなところに住めるのか?」アキラはぶっきらぼうに言った。

「月の町は閑散として東京みたいな明かりもないただ小さいなところだぞ。」

 

「私は大きな町より小さな町の方が好きよ。」リンダラーは即反論した。

「タイの私の町もとても小さなところよ。私は月の谷に絶対に住めるわ。あまりバカにしないで頂戴。こんな綺麗な町に私が住みたくない理由なんて何もないわ。」

 

「綺麗な町だが、秘密を持ったところさ。」アキラは低く含み笑いをし、同時に星の皇子は軽く咳払いをした。

「僕が言いたいのは、どの町も旅行者が理解できる以上に複雑なことがいろいろあるということさ。もしかしたら君が思っているような綺麗じゃない側面もある。」

皇子が窘めるように彼を見たのでアキラは説明をして弁解したが、どう弁解しようとしてもその場の雰囲気は悪くなる一方だった。

「私は気にしないわ。」リンダラーは自身の考えを変える気はなかった。

「月の村は私の夢の地なんだから。」

 

彼女の前に現れた町の風景は 神話の中の景色そのものだった。

月の村にどんな秘密があろうとも リンダラーはまったく気にしなかった。

一生の間に一度は必ず訪れたいと夢みていた町についに来れたのが本当に信じられなかった。

彼女は旅行かばんに目をやった。そこにはボロボロに古くなった日本の伝記本が入っていた。

彼女がついにここに来たと誰が信じられるだろう?

 全てのことは短時間で起こった。そして夢が全て現実になった・・。

 

 

 宮川家の屋敷は 遠くから見えた山の上の神社の裏手、生い茂る松の大木の森の中にあった。

全木造3階建ての屋敷は 釘を一切使わない古い日本様式で建てられており、

屋敷の形は現代の人が住む普通の家というより昔の日本の城のようだった。

 

中年の運転手は車を後の大きな神社の方へ回した。

リンダラーは神社の門の上に立つ鶴の象を見て目を丸くした。

 

「鶴の神の神社!」

彼女は声を震わせ呟いた。日本の民話の本で表されていたのとまるで同じだった。

鶴の神社が本当に存在した。

 

「そう・・。鶴の神の神社です。」星の皇子も同じように小さな声で呟いた。

「小川の向こうのあちらは狐の神の神社。」

ちょうど車が川沿いを走っているときに、彼はまるでリンダラーの心が読めるように語った。

月光が水面の白銀に輝く波紋に反射していた。

 

「これは月の川でしょう? 昔の月の川は季節はずれの吹雪で大津波を起こして田畑に被害を与え 疫病を蔓延させ それで狐の神は村とそこの人々を守るため犠牲なって 自身 絶命してしまった・・。」

 

「言い伝えは・・」白い着物を着た男性はため息をついた。先ほどの瞳の輝きも消え失せてしまった。

「口から口へ言い伝えていくうちに、そして長い月日が流れていくうちに話も徐々に変わっていってしまう・・。」

 

「どういう意味?」

リンダラーは顔を星の皇子の近くに突き出したので 彼女は相手の白い肌をじっくりと見ることができた。それは透き通る白さで輝きを放っていた。

 

「どうという意味はありませんよ。」星の皇子は苦笑いをした。

「なんとなく愚痴を言っただけです・・。あなたは稲荷の神の神社をとても見たいのでしょうね?」

 

「ええ。私、稲荷神社を見たいわ。」リンダラーは興奮したように言った。

彼女はアキラと星の皇子の仕草が普段と違っているのには気がつかなかった。

 

「以前、日本の旅行の本で見たのよ。そこの鳥居、とても綺麗。時間があったら写真を撮りにいきたいわ。そしてフェイスブックに載せて友達を羨ましがらせなきゃ。」

 

「僕達はリョウイチどもが好きじゃない。」アキラは唐突に言った。

「リョウイチどもも僕達のことは嫌いだ。」

 

「どういうこと?」リンダラーは眉をひそめた。「何か話す時には相手にわかるように話してくれる?」

 

星の皇子はリンダラーがはっきりものを言うのが面白く、笑いをこらえることができなかった。

彼が笑うと 細長い目がさらに細くなり、可愛かった。

 

「僕達、宮川家は鶴の神の氏子で、一方、リョウイチ家は稲荷神社の氏子だ。」

アキラは短く言った。「これで わかったか?」

 

「何?あなたのところは鶴の神の神社の面倒を見ているの?」リンダラーは伝説の月の谷に来れたこと以外に さらに鶴の神の神社の世話をする仕事を持った家の者に出会えるとは思いもしていなかったので、すっかり驚いた。

それで今、どうしてアキラが苛ついているのかがわかった。

 

日本の民話によると 大昔に鶴の神と狐の神が人間界に降りて来た時、雪女の妖怪が鶴の神に出会い、彼に恋をした。しかし鶴の神には7月の星の姫という愛する人が天にいたため 鶴の神は雪女の愛をけんもほろろに拒否したためにひどい事態になった。

雪女は怒り、その復讐として、台風を呼び町を壊滅させ、津波で田畑を全損し、疫病の蔓延でたくさんの村の人々がばたばたと死んでしまった。

狐の神は村の人々を護るため自らを犠牲にし 絶命してしまった。

狐の神と雪女の戦いで 鶴の神は天に帰るのに間に合わず 人間界にずっと留まらねばならなくなってしまった・・。 

 

それでリンダラーは何故それぞれの神社を世話するもの達が互いを気に入らないのかがわかった。

それはそれぞれに互いを自分たちが祀る神が罰を受けなければならなくなった原因は相手にあると非難し合っているのだ。

 

「私にはわかったわ。あなた達が狐の神が嫌いなのは 狐の神があなた達が信仰する鶴の神を天に帰られなくさせたからだわ。」

リンダラーはさらに続けた。

「かたや狐の神側の人達があなた達を嫌いなのは 鶴の神のせいで狐の神の肉体は滅んでしまった・・そうでしょう?」

 

「その通りだ。」アキラは頷いた。同時に鶴の神は悩ましげにため息をついた。

「だから、君はリョウイチ達と狐の神社には絶対に関わるべきじゃないんだ。」

 

「それはお断りよ。」車はまだ鶴の神社の一帯をゆるゆると走り 後ろにある宮川家の屋敷の領域に入っていった。

 

「どういう意味だ?」今度はアキラが怪訝な顔をする番だった。

 

「あなた達は何に怒っていようと お好きにどうぞ、ってことよ。私にはまるで関係のないことだもの。」

リンダラーは彼女の気質通り、はっきりと言った。

 

「まったく何てわからず屋なんだ!」アキラは小さな声で悪態をついた。

若者はタイ人女性が彼の言うことをまるで聞こうとしないのにむしゃくしゃしているようだった。

35代目宮川家跡取りはさらに何かを言おうと口を開いたが 星の皇子は彼に黙っているようにと言い聞かせるような厳しい視線を向けた。

若者は抗議をしようとしたが、その前に車は大きな屋敷の前に到着してしまった。

 

「宮川家へようこそ。」星の皇子は彼女に微笑みかけ、イラついた顔の若者の方に対して「この言葉を言うのは 実際のところは君のはずですよ、アキラ。私は君のような宮川一族の者ではない、ただここに住みついているだけの者ですから。」と言った。

 

リンダラーは相手の言葉に驚きで目を丸くした。「住みついている人・・?」

星の皇子はどういう意味で言ったのか?彼女はてっきり彼は宮川家の一人だとばかり思っていた。

彼女は彼がどうしてそんな風に言うのか尋ねようと口を開きかけたが それは失礼になると気がついて黙っていることにした。

一方アキラもその言葉を聞いて 呆然となり 次の言葉が出てこず、ビロードのような緑の苔で覆われた黒いレンガを敷き詰めた歩道の方へリンダラーを招き入れる仕草をしただけだった。

 

空気中には甘い花の香りが漂っていた。

星の皇子について歩いていたリンダラーはびっくりして突然立ち止まった。

彼女は 目の前に現れた花のトンネルに驚嘆し目を丸くした。

あの芳しい香りは房となって垂れ下がっているそこの花々からのものだったのだ。

 

藤・・満開の藤・・。

 

リンダラーは来日したばかりの時、シャンデリアのようなその美しく淑やかな藤の花のことを知った。

 

その前までは日本とその国の花といえば 彼女が思いつくのは桜の花だった。

日出づる国の日本に勉強に来た時、他にもたくさんの種類の美しくて香りのよい花が他にもたくさんあることをリンダラーは知った。

藤もその中の一つだった。

花の命は短い。通常、藤の花も1ヶ月間しか咲いていない。

桜が枯れる頃、開花し始める。

しかし、彼女はジュンイチから 月の谷は特別な場所で 気候も一年中涼しく過ごしやすいので 日本の他の地の藤がある所よりも 藤が何ヶ月も長持ちして咲いていると聞いていた。

 

花の色は黄色、白、ピンクそして紫があり、枝から花軸をシャンデリアのようにすっと垂れ下がらせている。

高く太い藤の幹が 花のトンネルから数メートル離れて立っていて 枝が幹の周りに広がって伸びている。

枝は太く重いので藤園の主はトンネルを藤が寄りかかり、花を長く垂れ下がれるよう鋼で作らなければならなかった。

 

夜にもかかわらず、明るく照らす月光で 宮川の屋敷は互い違いの色の藤を美しく植えているのがよく見えた。

目の前の藤のトンネルは昼間に見れば この何倍も美しいのだろうと彼女は確信した。

 

彼女はふわふわした感じで男性について歩いて行った。それはまるで現実というより夢の中にいるようだった。

木造の屋敷が素晴らしく美しいという以外に、宮川家の庭が天国の庭のように美しいと誰が想像していただろう。

 

「ありがとうございます。そして、こんばんは。星の王子様。」

藤のトンネルの先に ひとりの年配の女性が立っていた。

その女性は星の皇子に まるで人間が神に対してするように 最敬礼をした。

 

彼女が着ている着物は雪のように純白だった。襟足で丸めて結った白い髪とよく合っていた。

しかし彼女の風貌はまるで王女のように気品があり その面立ちは透き通るような白い肌に鮮やかな赤い唇をしていた。

言わずともリンダラーには彼女が若かった頃どれだけ美しかったか予想できた。

 

「ありがとう、ミキ。どうか光の面倒をよく見ておくれ。」

星の皇子はお辞儀を返し そこで困惑し立ち尽くすリンダラーを残し、あっという間に屋敷の中へ入っていってしまった。

 

「ミス リンダラー、光さん。」ミキは淡々とした声でリンダラーの名前を呼んだ。

リンダラーを見る彼女の目は澄み 美しい顔で 年齢にふさわしく感情を表さなず、そしてどんな感情も表に出さなかった。

 

「ここまでの旅はいかがでしたか?」ミキは礼儀として尋ねた。

 

「とても快適でした。」相手が礼儀として尋ねたので 彼女も礼儀として答えた。

「ミキ・・さん。」

 

「この人は僕の大叔母だ。」アキラは重々しくリンダラーに言った。

しかし 彼が大叔母のことを口にする時の声は優しさに溢れていた。

 

「お目にかかれて光栄です、どうぞよろしくお願いします。」

リンダラーは相手に対して深くお辞儀をした。

 

「宮川家へようこそ。」ミキはもう一度そう言った。

「どうぞ こちらへ。お泊りの部屋を準備しています。」

 

リンダラーは若者の方を振り返った。

アキラはリンダラーについていくようにと 頷いた。

彼の後ろから 運転手が彼女の旅行鞄を運んでついて来ていた。

 

遠くの空から ゴロゴロと雷の音が聞こえてきたが、彼女の周りの空気はちょうどいいくらいに涼しく気持ちよかった。

 

リンダラーの周りの世界はまるで時が止まったようだった。

今日の昼間には彼女はまだ喧騒にあふれた大都会にいたと 誰が信じられるだろう。

 

リンダラーはじっと目をつぶり 深くそして長く息を吸い込み、両手をぐっと組んだ。それはまるで今この目の前に起こった全てのことは夢ではないと自分に言い聞かせるようだった。たとえこの奇跡のような現実が夢のようであったとしても・・。

 


7

ゴロゴロ・・・

 

暗い空。雨雲のない空は輝く星で溢れている。それでも空はゴロゴロと鳴り、

祭壇の後の狭い部屋の中に 何度も轟いている。

それはまるで老人の感情で鳴り響くように。

 

ガラガラーッピシャーッ!!

 

最初の雷の音から間もなくして 大きな雷が落ちた。

稲妻がピカっと光り、部屋の中で座禅を組む皺だらけの老人の恐ろしい形相を映し出した。

彼の前には大きな祭壇があり、その祭壇の後の方には 火山岩で彫られた狐の神の像がある。

彫刻されたその像の形跡からすると 首に巻かれた赤い布が相当古いものだと 物語っていた。

バリバリと鳴る音と屋根の振動で ダイスケは雷が間違いなく屋敷の切妻に落ちたとわかった。

木の焦げ臭い匂いと大騒ぎして走り回る人の声が外から聞こえ、家の使用人達が狼狽しながら火を消しに走り出ているのだろう。

 

リョウイチの屋敷は大きな神社の裏手にある。

たった今、ガラガラという大きな音とともに雷が落ち、古い屋敷がガタガタと揺れている。

祭壇の部屋の中央に置かれていた狐の神の像が祭壇から落ち、真っ二つに割れてしまった。

 

縁起の悪い・・なんと不吉な兆し・・

 

「ううう・・・」老人は胸が痛くなり 急に立ち上がった。

彼は胸元を掴んで はあはあと喘いだ。

 

ちょうどその時、ひとりの若い男が襖を押し開けて急いで入ってきた。

 

「ああ・・像が!!」先ほど走って入ってきた男は 彼ら一族が何百年もの長い間、祀っていた神様の像が部屋の床の真ん中で割れているのを見て驚き 青ざめた。

しかし、ヒデノリをもっと驚かせたのは 彼の祖父がうずくまり 片手で胸元を掴み 苦しんでいることだった。

 

「おじいさん!どうしたのですか?!」

 

白いボウボウに伸びた白い眉毛を歪ませ、恐怖に慄いた様子で 夜は涼しいというのに無表情の顔には汗をにじませていた。

 

ダイスケがずっと恐れていた事がとうとう現実になったのだ。

 

「あの女が月の谷にやって来た。」

 

女が来て、天の呪いとなる。

女が来て、リョウイチに悪を齎す。

 

「おじいさん!!」背の高い若い男は大声を上げた。

 

ダイスケはゆっくりと 後継である若者に振り返り、口を真一文字に噤んだまま 何の言葉も発しなかった。

 

「おじいさん、体調が悪いのでしょう?」ヒデノリは心配して聞いた。

彼の祖父はずっと長いこと瞑想に篭っていた。

しかし、雷鳴が轟くや、白髪のやせ細った男はひどく驚いた。

若者は祖父の今回のように驚く様子を今まで見たことはなかった。

威厳のあるダイスケが 孫にもそうとわかるほど 恐れ慄いていた。

 

「来てしまったのだ。」嗄れたくぐもった声で老人は呟いた。

 

「なんですって?」ヒデノリは眉をひそめた。

「誰が来たのですか?」彼には まだ祖父の言うことが理解できなかった。

 

「藤の花 咲き誇る中

 雷鳴の 轟たるは

 金の鶴ぞ 出る」

 

孫の問いに直接答える代わりに 古い俳句を詠んだ。

 

「何ですって?!」今回ばかりはヒデノリも直ぐに理解し、狼狽した。

「来てしまったのですか?!」

 

部屋の中央に置かれた丸く大きなカンテラの灯りの中、ダイスケは孫である男に 言葉で答える代わりに頷いた。その眼光は年とともに霞んではいなかった。

冷酷な眼光がカッと光った。

 

「明朝、探りを行かせろ。」彼は残忍な声で 孫に命令した。

「もし、月の谷で見覚えのない顔の女に会ったら 容赦なく直ちに殺せ!生かしておくでないぞ!」

 

「はい。」ヒデノリは 祖父の命令を平伏で承諾した。

彼の胸は恐怖でひどい動悸がした。

まさかあの俳句の中の隠語が彼の代で現実になろうとは考えもしなかった。

 

たとえ殺人は現代の法律に反していても その女の出現は何百年も継承されてきた彼の一族を滅ぼすのであれば、命をもって命と引き換えにしても十分に元が取れる!

    金色の日差しが厚い木の葉のカーテンを通って長い窓から入り、畳の上の布団に熟睡しているスリムな体の女性に当たった。

彼女が気持ちよく ぐっすり眠っていると、木の枝の上の小鳥の楽しそうな声がした。

 

「起きて、起きてってば。いつまで寝ているんだい?ここの空気は新鮮で気持ちいいよ。もう起きなさいよ。」

桜の枝の上の二羽の太った鳥達が眠っている彼女に向かって言った。

二羽の鳥達は好奇心いっぱいに見慣れない顔の女性を見つめた。

 

「誰だろう?見たことがない顔だ。」左側に留っている鳥が首をかしげて友達に尋ねた。

 

「光。」右側の鳥が答えた。「星の皇子がこの娘のことを 光と呼んでいるのを聞いたんだ。」

 

「光・・寝ぼすけだな。」最初の鳥が面白がって笑った。

 

「悪くは言えないよ。」もう1羽の鳥が言った。「昨日、遠くから来たから きっとヘトヘトなんだよ。」

 

「違うね。この娘は寝ぼすけなだけさ。」最初の鳥はまた面白がって笑った。

 

二羽の鳥達がメロディアスな旋律で合唱し ピチピチと鳴いた。

「光 お寝坊さん 起きてくださいよ

 光 お寝坊さん 朝ですよ さあ起きて」

 

「う、ううん・・。」二羽の鳥達にそう言われた彼女は 体を動かし 伸びをした。

「何・・?なんで朝っぱらから私を起こすの?」リンダラーはパチパチとまばたきをした。

窓の方を見ると 彼女を起こした声の主・・それは二羽の鳥以外の誰でもなかった。

二羽の鳥が素早く飛び去る前、彼女は二羽の鳥が首をかしげて顔を見合わせているのには気が付いた。

 

残された彼女は 体を起こした。そして、自分は小さくてせせこましい東京の借家ではなく、宮川家の屋敷で寝ていたことに 今、はっきりと気がついた。

 

「いけない!!」 リンダラーは寝床から飛び起き、急いで布団を畳んだ。

昨夜、ファイルの中の宮川アユミの疾病記録を朝方まで夢中で読んでいたので、その後すっかり熟睡してしまっていたのだ。

 

それを読んで、リンダラーは アユミの疾病は十分に良くなっているのがわかった。もし真剣にこまめに訓練とリハビリをすれば 必ずまた歩けるようになると確信した。

 

しかし、不思議なのは、何故少女はまだ歩けないでいるのかということだった。

叔父も祖母もこれまで何人も理学療法士を雇って世話をさせていたのに。

 

時計が朝9時を告げたので それについてよく考える時間はなかった。

昨晩、ミキがここでの朝食は朝8時からだと伝えていたので 彼女は急いでバスルームへ行き 素早くシャワーを浴び、顔を洗って 歯を磨いた。

幸い、ミキが用意してくれた部屋には専用のバスルームがついていた。もしそうでなければ 何もかもが遅くなってしまっただろう。

 

何百年前に建てられた屋敷であっても 宮川家全ての世代の子孫達は屋敷をよい状態に保っていた。

そして アキラの父が時代に合わせ 各部屋のバスルームを 現代風の洗面台、シャワー、温水器、トイレ機器に改装していた。

寝室にも冷暖房機がある。 あるとしても 寝室だけで そこもまだ畳の上に昔ながらの手造りの布団があるところだが。

 

リンダラーは着替えたら 食事を終えた人達に会えるだけでもいいので、急いで階下の食堂の部屋に降りていった。

 

「おはようございます。 おはよう、アユミちゃん。」

リンダラーは車椅子の少女に照れ隠しに挨拶をした。

 

部屋の中にはアユミの隣に座る肩までの短い髪をした背が高く痩せた平坦な作りだが綺麗な顔立ちの女性と、上座にはミキがいて、見当たらないとすれば星の皇子だというのが窺えた。

 

「おはようございます。昨晩は良く眠れましたか?」ミキが笑顔を向けた。

 

「ぐっすりです。」リンダラーも笑顔で答えた。

 

「朝食に間に合わないくらい寝坊したってことか。」アキラが呟いた。

 

「アキラ。失礼ですよ。」ミキが叱責した。

 

部屋の中の雰囲気が居心地悪くなりだした。

ミキはリンダラーにさっきの痩せた女性を紹介することでその場の雰囲気を改善しようとした。

 

「これは アイです。仲良くしてくださいね。」

ミキは二人を招いて紹介しあわせた。

「アイは私の姪で アユミの世話をしに来ています。」

 

「こんにちは。」リンダラーは愛に微笑みかけた。「初めまして。お目にかかれて嬉しいです。」

 

アイは返事をしなかった。ただ口を動かして笑顔を返えすような仕種をしただけだった。

彼女は無表情で 視線を後方の方に向け まるで空を見ているようだった。

 

「アイの他に 私たちはアユミの世話役として3人の女性を雇っています。」ミキは後方を見るよう手で促した。

 

リンダラーは ミキが指す方向に目を向けると それぞれ色の違う浴衣を着た3人の若い女性が礼儀正しく立っていた。

 

なんてことかしら・・・リンダラーはこっそりと呟いた。こうして人に囲まれて大事に世話をされているからアユミはまるで歩けないでいるんだわ。

 

「ナナ、エリカそしてハチコです。」

ミキは一人ずつ 使用人の女性たちを紹介した。

リンダラーはこの女性たちは普通の使用人ではなく、いろんな知識がある人達だとわかった。

 

ナナは看護婦で、エリカは教師、そしてハチコは以前 絵を描く芸術家だった。

3人はアユミを至れり尽せり世話をする以外に ナナは少女の専属看護婦で エリカは勉強を教える先生、そしてハチコはアユミに芸術を教える先生であった。

 

「白雪姫のお姉さんは 本当に私の世話をしてくれるお姉さんになるの?」ずっと黙って聞いていたアユミも尋ねた。彼女の声は嬉しそうだった。

彼女は優しい白雪姫が 遊園地でおじさんを探すのを手伝ってくれたのをずっと覚えていた。

 

「そうよ。」彼女は少女に答えた。

「お姉さんは あなたがまた歩けるようにお手伝いするの。」

 

「私は歩けないわよ。」アユミはうなだれた。

涙が二つの目に溢れていた。少女は薄ピンクの唇をぐっと噛んだ。

「私 何度も歩く練習をしたの。でも 全然ダメだった。たぶんもう一生歩けないわ。」

 

「歩けるわよ。」リンダラーは少女を励ました。「お姉さんはあなたは絶対に歩けると信じているわ。」

 

「ダメよ。」アユミはしくしくと泣き出した。「私は歩けないわ。」

 

「歩けなくても 大丈夫だ。」アキラは不服そうに語気を強めた。

「僕たちには有り余るほどお金がある。お前が歩けなくても 一生困ることはない。」

 

「なんですって!?あなた・・」リンダラーはそれを聞いてカッとなった。

そして背の高い男性のほうを不満げに向き

「よくそんなことが言えるわね。私たちはアユミちゃんをまた歩かせようとするんじゃないの?」

 

「僕は姪に強制するのは嫌だ。」アキラは肩をすぼめた。顔立ちのいい彼の顔には頑固さが見て取れた。

「アユミが努力してもだめななのに、何故僕たちはさらに彼女を悲しませることを強要するんだ?こんなふうに身体障害者であるだけでも十分に悲しいんじゃないか?」

 

「アユミちゃんが歩けないのは貴方みたいなおじさんがいるからだわ!!」リンダラーがストレートに言ったため アキラはムッとなった。

 

「なんだって?!僕みたいな叔父がいたらなんだと言うんだ?!」アキラは不満で語気を荒げた。

 

「甘やかす叔父さんがどうやって姪っ子をダメにしたのかしら?!」リンダラーは遠回しに言った。

「私は 治療記録を全部読んだのよ。アユミちゃんはもし、ちゃんとリハビリを施していればまた歩けるくらいに十分回復しているわ。でもこれまで誰もそれができないでいる。それはあなた達が彼女への手助けをし過ぎるせいで 彼女は自分自身でも何とかしようとさえしなくなってしまった、そうでしょう?」

 

「君はここに来たばかりで何がわかるんだ?」アキラは語気を荒げ続けた。

「君がまだ知らないこと、理解できないことがが他にもたくさんあるんだ!」

 

「ちょっと、ちょっと!もういい加減になさい!」ミキはこれ以上黙って聞いていられず言った。彼女はテーブルを大きく叩いた。それでふたりの男女の言い争いは止まった。

「光さん、あなたにはアユミが歩けるようになるための訓練の役目があります。でしたらその役目を全うしてください。そしてアキラ、あなたはそれに対して干渉しないこと。アユミの訓練は光さんに彼女のやり方で任せなさい。」

 

「ですが・・おばあ様。光が強制して アユミを無理矢理歩かせて それでまた怪我をしたらどうするんですか?」アキラはむすっとした。

 

「でも もしあなたが私に私のやり方でさせないで いつになったらアユミちゃんが歩けるようになるの?」リンダラーは言い返した。

彼女はこの先たくさんの障害があるのがわかった。

 

「歩けるようになろうとなかろうと 君には給料を払ってしっかり儲けさせてやるよ!」アキラは言った。

 

「バカにしないで!アキラさん!」リンダラーは顔を真っ赤にして怒った。

「あなたのお金ですべてが買えると思わないで!私がここに来るのを決めたのはお金の為じゃないわ! アユミちゃんをまた歩かせるのを助けるために来たのよ。だから もし私にあなたの姪っ子さんを助けさせたいなら どうか邪魔しないで!私が思う通り、仕事を全うさせて!わかった?!」

 

「僕は・・」アキラはさらに何かを言おうとしたが ミキが手を挙げそれを止めた。

 

彼女は表情と同じく淡々とした声で「わかりました。私はあなたがすべきと思うやり方でアユミの世話をすることを認めます。」と言った。

 

そしてアキラのほうを向くと同時に厳しい声で言った。

「そして私はあなたがアユミの歩行訓練をしている間、アキラは絶対にあなたの邪魔はしないと約束します。」

 

 


8

リンダラーはあの食事の後、アキラがはっきり むすっとした様子でいるのがわかった。

リンダラーがアユミの歩行訓練をしている間、邪魔をしてはいけないとミキに釘を刺されたことで面目を潰され不満なのだろう。

 

しかし リンダラーは気にしなかった。彼が怒りたいなら怒らせておけばいい。

彼女がしてしまった全ては アユミに対する善意あってのことだ。

過去に患者の世話を何件もした経験から リンダラーは患者が再び歩けるようになるのは簡単なことではないと知っていた。

しかし、今後理学療法に頼らねばならないとなると、患者もそしてその身内も全身全霊を使い、筋肉の鍛錬に耐えていかなければならない。

ただで得られるものは何もない。 成果を得るため たとえお金をつぎ込んでなんとかしようとしても、 患者は歩く練習をし始めの頃、最初の痛みを受け入れるしかない。

障害を負い、長い間使われずにいた筋肉を再び動かす準備ができる状態にするには、まず筋肉を柔軟にしなければならないのだ。

一番難しい段階はこの第一段階であると言える。

しかしこの段階をすぎれば 患者の歩行は徐々に向上し、早く治癒できる。

両親や保護者、そして患者の世話をする人はこのことが理解できず、 患者が痛みで泣き叫ぶのを見たとき、患者の扱いが荒すぎるのではないかと理学療法士に文句を言うことが度々ある。

ミキやアキラ、そして愛はこの手の保護者グループなのだ。

 

それにより、最初の二、三日、リンダラーはまだアユミにそれほど多くを強要しなかった。

彼女は少女には時間をかけた。

アユミの筋肉の潜在能力の大小がどれほどなのかを評価するために じっくり観察した。

タイ人女性の理学療法士は アユミの筋肉が彼女が考えていたより細く小さいのがわかって驚いた。

これでどうしてアユミには常時、理学療法士がいたとアキラには言えるのか?

常時 世話をしてきたのであれば、何故少女がこんな風になるまで放置していたのだろう。リンダラーは残念で仕方なかった。

これは何ヶ月も前からずっと アユミはまるで筋肉の運動をしてこなかったということだ。

両足の筋肉は恐ろしい程 細く小さくなっていた。

 

「アユミちゃん・・。」

彼女はあまり離れてない所に座って新聞を読みながら、こっそり彼女に注視しているアキラの視線を感じつつ、少女に優しく話しかけた。

「今、あなたの両足の筋肉がとても小さくなっていることを知っている?このままにしておいたら、絶対歩けないと思うわ。」

 

「それって、もう歩けないっていうこと?」アユミはか細い声で泣き出し、涙が両頬につたって流れた。

 

アキラは姪の泣き声が聞こえると、手に持った新聞を急いで置き 何が起こったのかを覗きに来た。

 

端正な彼の顔は リンダラーが何をして 彼の姪がこれほどしゃくり上げるほど泣いているのかと不満気にリンダラーを睨みつけるだけだった。

 

「あなたは歩けるようになるわ。」リンダラーは手を伸ばし、アユミの小さな両手をしっかりと握り、美しい尖晶石のような目で少女をじっと見つめ、約束するように一言一言はっきりと話しかけた。

「絶対に歩けるようになる。でも私が言ったように 我慢しないといけないのよ。アユミちゃんが一生懸命歩く練習をしたら 筋肉が強くなって そしてまた歩けるようになるの。でもリハビリはとても大変なの。もしかしたら出るかもしれない痛みを我慢しないしないといけない。わかった?」

 

歩行練習を開始する前に患者と理解し合うのは一つの大事な段階だ。

 

理学療法士が前もってリハビリの間に出るかもしれない副作用について説明をしなかったために 歩行練習のプログラムを開始した時、患者はどうしてまた痛みが出だしたのか理解できず また保護者も患者が痛がっているのを見て気分を害することが多々ある。

 

もし十分な説明とそれについての合意が事前にあれば 歩行練習の時に痛みが出ても 患者も保護者もリハビリ中に起こり得る段階の一つと理解してあまり騒がない。

 

「わ・・わかった。」アユミは手で涙を拭い、綺麗な白雪姫に約束した。

「私、頑張る。私、我慢する。」

 

「素晴らしいわ。」リンダラーは満足したように微笑み、背の高い若者を横目で見つつ、高級な電動車椅子に座る少女に向かって

「リハビリの時、痛いかもしれないけど お姉さんはあなたをいじめているんじゃないってわかっててね。」と言った。

 

「わかった。私、我慢する。」少女は真剣な目で約束した。

 

「お姉さんはあなたがまた歩けるよう 何でもすると約束するわ。」リンダラーは少女に笑顔を向け 手を差し出した。

 

アユミは少し迷ったが、約束の印として小さな手でタイ人女性の手をしっかりと握った。

 

「白雪姫のお姉さん、ありがとう!」アユミはやっと笑顔になった。

少女が笑うと 天使のように純真可憐で本当に可愛らしかった。

 

「もし歩けるようになったら、私は世界中、遊びに行く!」少女は夢にあふれ言った。

「私は、ほかの子みたいに歩けるし、走れるようになる。」

 

「もしあなたがどんなことも頑張ったら絶対に出来るわ。」リンダラーは励ました。

 

「もし、歩けるようになったら 世界中遊びに行く。光お姉さんも一緒にね!」

アユミは 星の皇子やほかの人達と同じように 彼女をつい「光」呼んだ。

 

「お姉さんは・・えっと・・。」リンダラーはしどろもどろになった。

請け負った仕事は短期間だけの仕事で、 アユミが歩けるようになり、そして大学が始まれば お別れしなければならないとよくわかっていたので 少女に約束する自信はなかった。

 

「そんな遠い先のことをまだ考えるなよ、アユミ。今夜はこの町で花火大会があるんだから 僕らは先にこの町に遊びに行こう!いいね?僕の可愛いアユミ。」アキラは腕組みをして会話をずっと聞いていたが、話題を逸らした。

「今年の7月の星の姫の祭はいつもの年より楽しそうだよ。町内委員が特別に大きな花火を用意しているって。」

アキラはリンダラーに目を向けつつも 姪っ子を誘った。

反対の態度をとりながらも、タイ人女性に知らせるようでもあった。

 

「行くわ!私、行きたいわ!」少女は目をキラキラと輝かせた。

「星の皇子も行くかしら?」アユミはワクワクして言った。

 

「たぶん お行きにならないよ。」アキラは低い声で言った。

「アユミも 皇子はずっと外出されていないのは知っているだろう。光を迎えに出られたのは特別な場合だった。」

彼は リンダラーに 星の皇子が天守閣から降りてきて、自身で東京へ彼女を迎えに行った件は本当に特別なことだったとわからせるように彼女を尻目にかけつつ話した。

何故なら、月の谷に帰って以後、皇子は宮川の屋敷の最上階の天守閣の部屋に篭って 

そこから降りて来て、再度リンダラーに会おうとはしなかった。

夜、美しい歌声と切ない琴の音だけが風に漂って聴こえるだけだった。

 

「だったら、私たちだけで行くのね。おじさん、私、行きたいわ。でも私遅く寝ちゃダメなの。おばあさまが許してくれないわ。」アユミは言った。

 

「大丈夫だよ。」アキラは可哀想な姪っ子に言った。

「僕がおばあさまにお許しをもらってあげるよ。一晩だけ夜更かしするくらい大丈夫さ。」

 

「本当?」アユミは制御ボタンを押して電動車椅子を叔父の方へ滑らせてきて

小さな腕を前方に上げると 若者はしゃがんでその姪をしっかりと抱きしめた。

「私は世界で一番おじさんが好き。」

若者の目尻から涙が流れると アユミが急いでそれを拭ってあげたが、その全てはもれなくリンダラーに見られてしまった。

 

数日が経ち、彼女は宮川家のいろんなことをたくさんいる女中や 藤園に巣を作っているたくさんの鳥たちを通してわかった。

 

他の人間だったら たぶん変に思うだろうが リンダラーにとっては 動物と会話ができる能力を彼女は持っているので 多くの人の知らないことを彼女は知ることができた。

 

農作物を作るのに適した豊穣な土地にある月の谷にいても 宮川家の主要なビジネスは着物を織ることだった。

宮川家の織る着物は日本全国で有名で、アキラの先祖は天皇・皇后両陛下に献上する着物を織る仕事を 何代にも渡って代々受け継いできた。 

 

現在、着物を織るのに便利な設備機器がたくさんある。

以前より楽で便利な着物の生産を助ける機械もあるが、宮川家は昔ながらの型を用い独創的な着物作りの手法を完璧に保っている。

 

宮川の着物を織る技法はたくさんある。

そのひとつは「絡み織り」と呼ばれる古典的な着物織りの方法である。

生糸を交互に交差して差し込んでいくのだ。この方法で織られた布は透けていて軽いので 羽織ると通気孔があるので暑くなくて気持ちがいい。

 

宮川家の手による着物が高価であるというのもあって、宮川の着物の顧客は上流階級だ。

そしてミキが従業員達にとても精巧に着物を織らせるよう管理しているので 非常に長い間、顧客たちは待たなければならない。

着物の生産量が少なくても 顧客の需要はとても多い。

需要に生産が追いつかないほどだ。それにより、アキラの代になって 彼は現代風な着物を新たに開発した。それは、時代に合った機械を 白鶴が翼を広げ空を飛んでいるロゴマークの宮川ブランドの傘下の一部の工程に補助として取り入れ、高級絹を綿に混ぜて織られた古典柄の着物である。

 

しかし、着物のデザインの精密さと天然由来の方法で染められた生糸の色により、宮川の着物の柄はとてもよく売れ、消費者の需要にまるで追いつかない。

 

リンダラーについて言えば、着物を織ることは珍しいことではない。

彼女のタイの家族は質素な生活をする農家で 父は農夫、母は専業主婦である。

彼女の家には 桑の木が植えられていて蚕を養殖している。

彼女の母親は 副業として 絹の布を織っている。

それで、着物を織るのを見たとき、リンダラーはとても興味を示した。

 

リンダラーはミキの機織り機を見たことがあり、まだ織り終えていない着物の布の上に多数の絹の糸巻きを見たとき、ただただ驚いて見入るだけだった。

 

日本の機織り機の特徴はタイのものとよく似ている。違いがあるとすれば、わずかに精密さの部分だけだった。

もし 彼女の母親が日本の機織り機に座る機会があれば、母親は絶対 機が織れるとリンダラーは確信した。

 

時が過ぎ、さらに暖かくなり、同時にリンダラーが更に宮川家のことをよく知るようになった頃、満開だった藤の花も散り始めた。

 

彼女は宮川家には 他の家とは明らかに違ういろんなことがあるのを知るようになった。

特に家系相続人についてのことだった。

 

日本の大きな家では 全てにおいて長男子息を重んじる。

しかし、宮川家では 長女子女に重きを与えている。

 

それは 宮川家は 国で最も有名な着物を織る一族である所以かもしれない。

それゆえ、一族秘伝の独自の織物技法を受け継ぐ者として女性後継者が重要なのだ。

 

そうした状況で、アユミは単なる祖母と叔父の秘蔵っ子というだけでなく、ミキの後を継いで、着物織りの家業を引き継がなければならない重要人物なのだ。

 

「本当に変なもんだ。人間には びっくるするくらい奇妙なことばかりあるな。」

リンダラーが会話をしているのが聞こえる太った小鳥が疑問で首を傾げている。

太った鳥の疑問は リンダラーも着目している点を力説している。

 

「どうして 宮川家は他の家みたいに考えないのだろう?どうして男性より女性を重んじるのだろうか?」

 

「何故なら、ここの一族は着物を織っているからさ。」

年長に見えるもう一羽の鳥が年少の鳥に話して聞かせた。

「着物職人として後を継がなければならないから女性の方が重要なのさ。」

 

「男だって着物は織れるよ。」年下の鳥が反論した。

「ある家のところを飛んだ時、男の人が着物を織っているのを見たことあるもん。複数の日本男性は着物を織るだけじゃなくて 女性より精巧で綺麗な着物を織る技術を持っているよ。」

 

「お前は鳥だぞ、何がわかるって言うんだ?」

 

リンダラーは年長の鳥が年下の鳥を叱っているのを聞いて 吹き出しそうになった。

 

「宮川家では 誰より特別なのは 「星の着物」という名の一枚の着物を織る使命を引き継ぐ一族の最初の娘だけだ。」

 

「何ていう着物?」小さい方の鳥が疑問で首を傾げた。

「すごくおかしな名前!」

 

「ほ・し・の・き・も・の 」年長の鳥が一言一言はっきりと答えた。

 

「星の着物・・星の国の着物・・。」リンダラーは思わず呟いた。

「何の着物かしら・・?そんな不思議な名前があるなんて・・。」

 

星の着物を今まで見たことなくても 彼女はその不思議な名前の着物はとても美しく、そして 普通の着物とは違う特別なものがあって宮川家はその着物を大切にしているのだろうと 想像できた。

 

「星の着物はどんなに重要なの?」年下の鳥は知りたがり屋だ。

「どうして星の着物という名前なの?それでとんな風に大事なの?で、どうして?」

 

もし年長の鳥が飽き飽きしたで鳴かなければ 年少の鳥はこの先もたくさんの質問をし続けただろう。

 

「あーもう!」年長の鳥が羽をばたつかせた。

「何をそんなにあれこれ聞くんだ? なんでそんなこと知りたがる?」

 

「だって、知りたいんだもん。星の着物とかなんとかっていうのが見た目どんななのかさ。」

年少の鳥は質問を一向にやめなかった。

「おじさんは見たことあるの?」

 

「いや、ない。」年長の鳥は少し恥をかかされたような様子で答えた。

 

「え!?」年少の鳥はピチピチ鳴いた。「見たことなくてどうしてわかるの?」

 

「私はお爺さんのお爺さんのお爺さんのお爺さんが伝えて続けてきたのを聞いたのさ。」年長の鳥が言った。

「そして、孫の孫の孫の孫の代まで伝え続けていくのさ。」

 

「へえ~。」年少の鳥は目をパチクリさせた。

「何でそんな先祖代々何代も伝えていかないといけないの?」

 

「それはこの星の着物はとても古いものだからさ。しかも何百年も経っているのに いまだに織り終わらないでいるんだよ。」年長の鳥は自信たっぷりに話した。

 

「何で織り終わらないの?」

年少の鳥はリンダラーも心の中で疑問に思っていることを尋ねた。

「彼らは織るのを怠けているの・・・?というのはありえないな・・。だってここの人達って働き者だし、姿を見せればいつも着物を織っているし、みんなすごく真面目に働いているのに何故着物を早く織り終えないのさ?」

 

「わからん!」おじさん鳥はあっさりと答えた。

 

「そんな~。」年少の鳥はがっかりした声を出した。

「何でそんなにあっさりと答えるの?おじさんは凄く何でもいろいろ知っているじゃない?」

 

リンダラーも 思わずがっかりしてしまった。

彼女は二羽の鳥達の会話を夢中で聞いていて、年長の鳥が言い終わらなかった、どうして宮川家の女性は星の着物を織るのかが知りたくてハラハラドキドキしていたところだった。

 

「しかし、私が知っているのはこれだけだ。」年長の鳥が年少の鳥に答えた。

「彼らはこれだけしか言い伝えてきていないし、宮川家の人達が何故星の着物をさっさと織り終えないのかは誰も知らない。織るのが難しいのじゃないのか?でなければ、模様が繊細すぎて、織るのが面倒臭いのさ。」

 

「ん~、臨場感たっぷりに話してさ~。」年下の鳥が面白がって笑った。

「てっきり叔父さんは見たことがあるのかと思ったよ。」

 

「そこまで極秘にされているのを 誰が見られるというんだ?!」

年長の鳥は羽を動かし、枝から飛び立つようだった。

鳥が飛び去る前に、

「もし 見たかったら いつか天守閣の辺りに飛んで行ってみろ。

お爺さんのお爺さんのお爺さんのお爺さんの言い伝えでは 宮川家はその上に大切に保管して、誰にも知られないよう、誰にも見られないよう小さな着物を織る部屋に隠してある・・星の皇子の部屋の隣のな。」

 

着物を織る部屋・・。

 

リンダラーはびっくりして目を丸くした。

屋敷の裏手にある着物を織る工場以外、彼女は天守閣の上にも着物を織る部屋があるとは知らなかった。

 

よし・・。 彼女は心の中で密かに期待した。

 

いつか天守閣の上にこっそり登ってみせる。

星の着物はどれほど美しいというのか?

そこまで極秘に宮川家の人達がするなんて・・。

 


9

夜の空気は涼しく、気持ちがよい。

空いっぱいに星が煌めいているが、遠い北の星であっても他のどんな星よりも輝く星がひとつある。

誰が言わなくても、あの星が7月の星だとリンダラーにはわかる。

 

七夕は日本中でお祝いをするが、7月の姫のお祭りは月の谷だけで行われる。その夜に点火される花火は特別なものとして打ち上げられる。

月の谷の人々は 空の上の7月の姫には彼らが打ち上げる花火を見下ろしてくれると信じている。

 

夜の風が優しく吹き、風に乗って 芳しい庭の花の甘い香りが漂って来る。

遠くからは聞こえる、哀しくかつ甘美な歌声。

 

ー静寂の夜 凍える露 7月の星

ダイヤモンドの如く輝き 天空を飾る 

永らく愛と離れ 虚しい心よ

いつまでも待ち続ける 舞い戻る日まで ー

 

歌い手が目の前に立っているようにはっきりと 甘く切ない声が美しい旋律を奏でる。

あの魅惑的な声の主は 宮川家の屋敷の天守閣の上に篭る星の皇子以外の何者でもない。

 

リンダラーはあの眉目秀麗な男性ともう幾日も会っていない。

宮川家屋敷に来て以来、彼とは会っていないのだ。

 

彼女にわかっているのは、彼があの上、天守閣の最上階の部屋にいるということだけだった。

ミキから禁止されているとは言え、リンダラーはそこに登って、星の皇子に仕事の機会を与えてくれたことのお礼が言いたいと思っていた。

 

「あの天守閣の上の部屋に上がれるのは 私とアユミだけです。他の者は 星の皇子がお呼びでない限り 上がれません。」

ミキの指示は リンダラーの権限を伝えるものだった。

上階に続く木の階段を通りかかる時、彼女はあの男性の影だけでも見れないか ちらりと目を向けるだけだった。

 

琴の音の伴奏で奏でる古い日本の歌のメロディはあまりにも甘く切なく、リンダラーは涙を堪えられなくなるほどだった。

 

大きな松林の中に隠れるようにある宮川の屋敷に彼女が目を向けると 天守閣の薄暗い光が、ぼんやりと立つ誰かの影を照らし出していた。

星の皇子が空を見上げているようだった。

 

切ない歌声は永遠と言えるほどの永い別れを物語っていた・・離ればなれになった愛する人と再び会える日を待ち続けていると、、、。

 

「光お姉さんは泣いているの?」彼女が涙を拭っているのをアユミがちょうど見ていた。

少女の叔父もたまたま彼女を見上げていた。

 

「い・・いいえ。」リンダラーは吃りながら言った。

 

「でも、私、涙を見たわよ。」アユミは眉をひそめた。

 

「お姉さんは、、えっと、タイのおうちが恋しくなっただけよ。」リンダラーは言い繕った。

 

彼女は嘘をついたわけではない。言ったことに少なからず真実はあった。

 

東京の部屋を出、月の谷に来て、両親に国際電話をする機会がまだなかったのだ。

携帯電話のお金を補充できないほど貧窮しているのだ。まずは次の給料を待たなければならない。そうすれば電話をして、ホームシックを解消するため両親と話をする。彼女は心の中で決めていた。

 

「もし電話したいなら、僕の仕事部屋の電話を使っていいよ、光。」

アキラがそう言った。初めて彼が彼女に優しく話しかけたようだった。

 

空の上の柔らかな星明かりが彼の端正な顔を照らしている。

内心では もし必要でなければ彼に後で恩着せがましいことを言われるようなことをお願いするつもりはないと思っていたが、リンダラーは振り返り アキラに軽くお礼を言った。

「ありがとう。」リンダラーは小さな声で言った。「でも、ご迷惑をお掛けしないほうがいいわ。」

 

「迷惑じゃないよ。」背の高い男はボソっと答えた。

「許可するよ。だって今日は君の誕生日なんじゃないか?ちょっと家のご両親に電話をしたほうがいいよ。」

 

誕生日!

彼はどうして今日が彼女の誕生日だと知っているのだろう?

 

「君のパスポートで知ったんだよ。」アキラはまるで彼女の考えがわかるように言った。

 

リンダラーは合点がいった。

彼女がここに来た時、アキラのスタッフが記載事項を写すため彼女のパスポートを借りたのを思い出した。

彼女のビザは学生ビザだったので アルバイトの許可書の手続きをしなければならなかったからだ。

許可は週に短期間のアルバイトができるもので、雇い主は大学に提出するために記載事項に記入する義務がある。

 

「やめておくわ。たった一日のことだもの。私にとっては、誕生日も他の日と同じ、特に何もない日だし・・・それに、タイへの遠距離電話代も1分何バーツもするから・・、本当に必要な時にお願いするわ。」

 

「そうか・・、だったら ハッピーバースディ、光。」

そう言うと彼は丸い形の何かを彼女に差し出した。

 

彼女は受け取るや、喜びで目を大きく見開いた。

 

「ダルマ!!ありがとう!」

 

ダルマは”七転び八起き”という意味がある、赤く塗られた木でできた起き上り人形だ。

髭を生やした男の、見てくれ真顔の顔を持ち、 二つの目は 持ち主が墨汁で書き加えるために真っ白である。

ダルマは日本人が人生で大事なことを願掛けするときによく使う縁起物だ。

 

ダルマは宣教師としてインドからやってきた禅宗の僧である”達磨大師”から来ている。

達磨大師は晩年、壁に向かって座り、不動のまま過ごす苦行祈祷を9年間したため、腕も足も腐ってしまった。

それが所以で、ダルマ人形は手足がなくなってしまったのだ。

 

人生で一番驚いた誕生日プレゼント・・リンダラーはびっくりしながら手の中のダルマを見つめた。

今年の誕生日にダルマをくれる男性がいるとは思いもしなかった。

 

「誕生日に何が欲しいかわからなかったんだ。」アキラは小さな声で言った。

真っ白な浴衣が若者の顔をはっきり際立たせていた。

「だから、君にダルマをあげるよ。そうすれば、自分でお祈り事をすればいいし。 このダルマは鶴の神社の特別なものなんだ。 僕達は1年に一回だけこれを作るのさ。君は願のかけ方はわかっているだろう?」

 

「ええ、知っているわ。」リンダラーは頷いた。

「心を落ち着かせて ペンでダルマの左目を描いて、願い事をする。そしてその願い事が叶ったら もうひとつの目を描き足すのよね。」

 

「その通りだ。だから光、君自身でお願い事をしてもらいたかったのさ。」

アキラは彼女にニコッと笑うと「急いで ダルマを片づけて。そして僕らは花火大会に出かけよう。アユミにこんないいお祭りを見逃して欲しくないんだ。」

 

アイは具合があまり良くないので どこにも出かけたくないと言った。

しかし、リンダラーにはそれがあの痩せた女性の口実とわかっていた。

正直に言わなくても、リンダラーにはアイが彼女のことが嫌いだとよくわかっていた。

何が理由なのかはわからない。

しかし、彼女は相手が友好的でないのは見て取れた。

 

彼女が来ないのはこちらにとっても好都合だ。これ以上雰囲気が悪くならずに済む。

一人でアキラのような気質の男を引き受けるのだけでも 耐えられそうにないのだから。

 

数人のボディーガードが皆にうっとおしくないよう距離を置いて後ろをついてきている。

若者がアユミの車椅子を押して リンダラーと並び狭い砂利道を通り歩いている。 

7月の祭は街中至るところで行われている。

鶴の神社と狐の神社は双方 競い合うように美しい提灯で装飾されている。

 

その時期の昼間、両方の神像が人々は拝謁できるよう町に出てくる。

リンダラーはドキドキしながら そのパレードを見た。

まさか人々の信仰がここまで深いとは思わなかった。

 

両方の一族の逞しい体格の男達が 褌に半被という昔ながらの衣装に身を包み

神輿を担いで町中を練り歩いて行く。

 

双方の行列は 宮川家とリョウイチ家の対立もあり 互いに出くわさないように回避し合い、また月の町の人々も そのことについて驚いてもいない様子でいるのに 彼女は気がついた。

 

夜の時間は、月の谷の人々が待ち望む大事な時間だ。

町の人々は この日の夜は 7月の星が一番光輝き、地球に最も近づいてきて、神々が人間のために厄払いと祈願祈祷をするために天界から訪ねてくる夜だと信じている。

 

月の町全体が花火で明るくなる。

町の人々は 何百年そうしてきたように、7月の星祭を祝うため 連れ立って出かけていく。

 

メイン道路を通った時、リンダラーは 各家の前に 神様への目印に門松が飾ってあるのに気がついた。

また家を清められた、汚れない神聖な場所にするために 全ての家にはしめ縄が掲げられている。

 

しめ縄は 禍と凶運を阻むための神聖な縄だ。

通常、日本人は 欧米人がクリスマスに柊を吊るすように 正月にしめ縄を家に吊るす。

正月以外には、7月の星祭の時に 彼らはしめ縄を再び掲げるのだ。

 

「しめ縄だわ!」リンダラーは目を丸くし 捻れた輪状の藁でできた縄に見入った。

このような縄が 宮川家の屋敷の至る所に吊るされてあるのを見たことを思い出した。

まるで あの屋敷の主人は 何百年も経った昔ながらの屋敷を神のための神聖な場所にしたいようだった。

 

枝に吊るされた風鈴がチリンチリンと音をたてている。

老若男女が いろんな色の浴衣を着て 川沿いを散歩しているのが見えた。

彼女も今日は皆と同様に 浴衣を着ている。

庭の藤の花びらのような紫色はリンダラーの肌を美しく映えさせる。

 

東京から来た時、リンダラーは安物も旅行鞄一つしか持ってこなかった。

最初、リンダラーはTシャツとジーンズを着て出かけるつもりだったが ちょうどそれを見たミキが騒ぎ立てた。

 

「まあ!光さん!! 何故夏にそんな服を着ているの!?

まさかそんな格好で花火大会に行くなんて言わないでちょうだいね!」

 

「ええ、そのつもりですけど。」リンダラーは相手に明るく笑いかけた。

 

日本に来て数年、リンダラーは徐々に文化の違いを知るようになった。

タイ人は”微笑みの国”の名にふさわしく、気軽に微笑む人種だが 日本人は感情を隠すのを好み、見ず知らずの人には簡単に微笑まない。

 

リンダラーが日本人の友人に微笑みかけた時、彼女がすることに真剣味がない、ふざけた人間までいかなくても、このタイ人女性は不真面目だと彼らのほとんどから思われることが何度もあり、リンダラーは日本人に微笑みかける時は注意するようになった。

 

「とんでもないわ!」ミキは眉をひそめた。

「こうした祭には皆、綺麗な浴衣を着るものなのよ。Tシャツにジーンズなんて誰も着ませんよ!」

 

「大急ぎでここに来たので、服の荷造りをする時間がほとんどなかったので浴衣は持ってきていないんです。」リンダラーはしょんぼりした。

 

たとえ、荷造りの時間があったとしても、祭に来ていくための綺麗な浴衣など持ってはいなかった。

 

浴衣は着物より安いとは言え、リンダラーのように、自活のためアルバイトをしなければならない奨学生であれば、話は別だ。

いろいろ節約をしなければならず、全てのお金は元が取れて、最も有益なことに使わなければならない。

彼女には 他の人たちのようにいい浴衣を買うお金などなかった。

使っているものでも 全て100円で売られている100円ショップの安い浴衣だった。

 

「私についていらっしゃい。」ミキはリンダラーに2階の部屋へついてくるように頷き、彼女をしばらくの間じっと見つめた。

年配の女性の表情と目つきは最初の頃より優しくなっていた。

 

リンダラーが少女・アユミの曾大叔母について行く時、どうして宮川の女性当主が自分を彼女のプライベートな部屋についてこさせるのかわからず 困惑した。

 

ミキについて部屋に入った時、リンダラーはびっくりして目を丸くした。

彼女の目の前には大きな衣装部屋があり、その中は掛けられた浴衣や着物でいっぱいだったのだ。

 

「まあ、、すごく綺麗・・素晴らしいわ。」それらの浴衣や着物に感嘆の声をあげた。

 

着物や服飾の専門家でなくても リンダラーには目の前の着物全てが100年は下らない昔の着物であると見分けがついた。

 

宮川家は日本全国で有名な着物織りの一族だけあって、全ての着物は美しく、芸術的で 装飾は今まで見たことがないようなものだった。

 

多くの着物は美しいだけでなく、繊細な生糸で織られ、博物館の中だけにあるような珍しい模様の柄をしている。

特に、壁に掛けられた特別な着物に リンダラーは目を奪われた。

それぞれの着物の柄を見ると 連続した不思議な一つの絵に見える。

 

彼女は数歩後にさがり、もう一度見ると、並べて掛けてある15着の着物が美しい天国の絵になっているのがわかった。

 

タイ人女性はその10数着の着物に驚くばかりで、ミキが箪笥から1着の着物を選び出し、彼女に渡したことにも気がつかなかった。

 

「どうぞ。」ミキは優しい眼差しでリンダラーを見て言った。

「この浴衣をおめしなさい。」

 

「まあ!なんて綺麗なの!これは絹で織ったものですね?」リンダラーは目の前の浴衣の美しさに驚いた。

全体に深紫の花柄が散りばめられ刺繍されていた。

彼女は藤の花の色のような薄紫の浴衣を嬉しそうに見入ったが、気持ちが落ち着いたところで はっきりとした声で断った。

 

「月の谷で養殖した蚕でできた柔らかな糸は着心地がいいのよ。」浴衣を見るミキの目は誇らしげだった。

「これは私が18歳の時に初めて織った浴衣です。」

 

「ミキさん・・私は受け取れません・・。この浴衣はとても古いものですし、私が台無しにしてしまうようなことになったら・・。弁償もできません。」


「ですが、私も同じように あなたをそのような格好で宮川の家から出かけさせるわけにはいきません。」

彼女は 厳しい目でリンダラーの頭からつま先を眺め下ろした。

「もし その服を着るのでしたら どこにも外出しないで家の中にいなさい。

誰かに見られたら恥をかきます。」

 

「ですが・・。」リンダラーは迷った。

しかし遠慮を抜きにすれば、相手の考えに同館でもある。

こんな現代風の服で町中、浴衣を着た人に混じって歩くというのは変に見える。


「迷うことはないわ。さっさとこの浴衣を着なさい。ややこしくしないで、光さん。

言うことを聞かないのに、私を意地悪だなんて言わないでね。」

ミキは相手を叱ってみせたが、心の奥底では少しずつ彼女を可愛いく思う気持ちが芽生えていた。

リンダラーは、ずっと長い間、寂しい宮川家に明るさをもたらす小さな星のようだった。

 

ミキは独身だ。彼女は宮川家第33代目後継者の娘だ。

ミチコは彼女の妹で男の子供が一人だけいた。

ミチコの息子・34代目後継者のアスラと彼の妻は、二人の息子つまりアキハラとアキラを大叔母のミキに一人で世話をする役目を残し、事故で命を落とした。

2年前アキハラも同じような事故に遭い、アユミを孤児で、さらに歩けない障害者として残し、この世を去った。

幸運なことに、あの時アキラは兄と一緒に出かけなかったので 彼はたった一人の生き残った後継者・第35代目となった。

 

事故を知る者は あれは偶然の事故ではなく、2つの事故の黒幕はリョウイチ一族だと口を揃えて言った。

 

狐の神社を祀るリョウイチ家と鶴の神社を祀る宮川家は何代にも渡り敵同士である。

2つの家の主な目的は一つの重要な着物ー星の着物ーにある。

 

宮川家の後継は代々、この着物を織ることを何百年かけて受け継いできたが、誰にもこの着物がいつ織り終わるのかわからなかった。

しかしこのことは 鶴の神と狐の神にも関わる重要なことだった。

 

宮川は星の着物を完成させる任務があり、一方、リョウイチはあらゆる手段で完成させないよう邪魔しなければならなかった。

着物を織るのを引き継ぐ者を絶やすため、宮川の家族に対する仕打ちとして前述したようなことが起こったのだ。

そして このことこそが ミキとアキラが たった一人の子孫を過保護以上に大事にする理由なのだ。

何故なら、彼女こそ 曾叔母から重要な着物を織る任務を引き継ぐ宮川家の第36代目だからだ。

 

 

今年の花火大会は特に盛況だった。

お菓子やおもちゃを売るたくさんの屋台が道の両側に軒を連ねている。

アキラは立ち止まり、アユミにかき氷を買え与えた。

リンダラーはそのまま歩き続けている。

 

月の両岸には 黒い墨でおめでたい言葉が書かれた紅白の提灯が交互に果てしなく長い線となって吊るされている。

楽しい雰囲気がリンダラーに「星の着物」についての話を暫し忘れさせた。

 

彼女は 狐の神社が路上に構えている店でお守り選びに熱中している。

 

リンダラーは一つを選び出した。「難関突破ーお守」つまり、浴衣の懐に入れておく袋に入ったお守りだ。

袋に入ったお守りは昔ながらの文字が書かれた赤いビロードでできたもので、一つ持っていれば 悪運と悪霊から身を守れる。

 

少し歩いた先に、彼女は月の川に架かる赤い木の太鼓橋があるのを見つけた。

どこにでもたくさんある狭い橋で、昔は歩いて対岸に行き来するために使われていたが、現在は車は新しく作られた主要道路に続く橋を使う。

 

彼女は橋を渡り、真ん中で立ち止まった。

すっかりアキラとアユミのことは忘れてしまっていた。

花火が大きな音で鳴り響き、花火で周囲が明るくなる。

彼女は興奮して花火を見上げていたので 誰かがじっと彼女を興味深げに見ているのに気がつかなかった。

振り返ったとき、リンダラーは一人の背の高い若者がギラギラした目で彼女を見ているのがわかりびっくりした。

アキラかと思ったが違う、彼女があったことのない男だった。

真っ黒な着物を着た体格のいい男で 会った人を惹きつけるハンサムで彼のその目の中には炎が踊っているようだった。

彼の背後には小さな子供のような影が隠れて立っている。

その影の上はたった今 沼から上がってきたように水のしずくが道になっている。

もう一度よく見たとき、リンダラーは後退りをしてしまった。

 

若者背後に隠れている小さな影の顔は蛙に似ている。ヌルヌルした緑色の体、背中には亀のような甲羅、足を見ると前足後ろ足両方ともザラザラしている。

口は尖って、鳥のくちばしのように折れ曲がっている。

そして一番恐ろしいのが、平べったい髪の毛のないハゲ頭で 顔は人のようだが、皺皺の老人で、それは今までに見たことがないほど恐ろしいものだった。

 

 


10

「カッパ!!」

リンダラーは恐怖で声を震わせた。

 

昔、日本の民話の中で聞いた妖怪の名前だったが、まさかこんな風に本物に出くわすとは思わなかった。

 

ぎょろぎょろした深い色の目の、ハンサムな若者の後ろに立っているカッパは邪心有り気にリンダラーを睨んでいる。

 

それの手足が動き、まるでいつでもリンダラーに飛びかかりそうだった。

手には水かきがあり、体は粘り気のある粘液で溢れている。

 

彼女は橋にくっつくまで後ずさりした。

背中の星の形のアザが激しく痛んだ。 いつものような疼きではない。

まるで誰かが尖ったナイフで背中の真ん中を刺しているような痛みで リンダラーの心臓は激しく打ち まるで胸から飛び出てしまうようだった。

彼女は 若者の方を指差し、彼にカッパが後ろについてきているのを気がつかせようとした。

 

まるで何かが橋の床に落ちたような ギェーという大きな声がした。

豆くらいの緑の種がコロコロと前方に転がり、そのカッパはしゃがんでまるでものすごくお腹がすいたようにそれを拾い食いした。

 

「あ・・あなた・・カ・・カッパよ。」

 

「何ですか?どこにカッパがいるというんです?あなたは見間違いをしているんじゃないですか?」彼の答える声は低く穏やかで、目は驚く程 力のこもったものだった。

 

「後ろに・・カッパ・・。」

 

ポッチャン!

 

何かが川に飛び込んだような音だった。

リンダラーは彼の後を指さしたが カッパの姿はなかった。

カッパはいなくなってしまっていた。

 

リンダラーは目をこすってみたが その男性の背後に立っていた子供のような小さな影は見えなかった。

自分の目が錯覚を起こしたというの? リンダラーは自身に呟いた。

 

「カッパがいない・・。」タイの女性は眉を曇らせた。

 

「カッパはいない。」まるでリンダラーに魔法をかけるように ゆっくりと言った。

「僕がいるだけだ。よく見てごらん。いるのは僕だけだ。」

彼の低い声とその力強さは 知らず知らずのうちに彼女を徐々に顔を上げさせ 

その力のこもった彼の目と無理矢理目を合わさせるようだった。

彼の視線は恐ろしい程の力があった。リンダラーを自分が自分ではないような感覚にさせる魔力があるようで その時の彼女はまるで夢の中を漂っているようだった。

 

「カッパは川の中にいる。」囁き声が彼女の傍でする。

「もし カッパを見たいなら その中に入るしかない。さあ、行け。飛び込め。」

 

ふらふらと 彼女は徐々に振り返った。

その時、激しい流れの川の上に架かる何百年前も昔の気の橋の上に立っていた。

彼女の手が橋に掛かりそれによじ登りそうになっていた。

 

「たくさんのカッパがお前をあそこで待っている。彼らは本当に愉快な奴らさ。」

 

激しく流れる川の暗い水の中から 愉快に笑う声が聞こえた。

本当だ。その下は、彼が言うように楽しそうだ。

彼らの歌う声が彼女を煽る。

リンダラーは謎の男が囁くとおり、カッパ達と楽しむために早く飛び降りたかった。

もし、橋を歩いていた数人の女性が彼女にぶつからなければ、飛び降りるところだった。

衝突した力で 彼女はよろめき、誰かに起こされたように我に返った。

同時に、あの若者は忍者のようにすばやく消えてしまった。

 

「きゃあ!」彼女は思わず大きな声をあげた。

鮮やかな色の浴衣を着た3人の女性がその声を聞き、喜びで奇声をあげた。

 

「まあ!あなた、タイ人なの?」一人の女性が目を丸くして言った。

 

「ええ、私はタイ人よ。」リンダラーは微かな声で答えた。

まだ混乱が収まっていないようだった。

 

カッパ達の歌声は消え、残っているのは花火の音と周りの人々の声だけだった。

 

「私もタイ人よ!」さっきの女性が淀みなく言った。

 

「で?ここで何をしているの?まるで橋から飛び降りそうだったわよ!」

もうひとりの女性が不審がって言った。

 

「え?私が?橋から飛び降りる?」リンダラーは自分を指さしながら言った。

彼女は高い橋の下の激流を見つめながらぞっとした。

高い橋とおまけにこんな激流。誰かが敢えて飛び込んだところで助かるわけがない。

 

「そうよ。ちょうど登ろうとしてたのよ。もし私達があなたにぶつからなかったらね。」もうひとりの女性が言った。

 

「この川は恐ろしいのよ。」もうひとりの女性が首をすくめた。萎縮した様子が十分にその恐ろしさを物語っていた。

「私の主人が、毎年ここに飛び込んでたくさんの人が死ぬと言っていたわ。まるで何かの身代わりのように、誰かがひとり死ぬと また新しい人の代わりを探して どうしたこうしたって・・。」

 

「まあ!そんな!」リンダラーはびっくりして、思わず手で胸を覆った。

 

彼女の指の先が 腰にぶらさていた「難関突破のお守り」に触れた。

ビロードの袋の先にいつからそうだったのかわからない穴が開いていて、そしてその中に詰まっていた豆も落ちてなくなっているのがわかりぞっとした。

 

カッパがしゃがんで何かを拾っていた。

橋の床でそれを食べていた姿を思い出すと・・あの恐ろしいカッパはお守りの袋から落ちた豆を拾って食べていたのだと気がつき、体中の毛が逆立った。

 

「難関突破のお守り」が窮地の彼女を寸でのところで救ったのだ。

 

「気をつけておいたほうがいいわよ。この町には不可思議な話がたくさんあるわ。

何か起きても誰もあなたを助けられないから。」

一番年長者らしい女性がリンダラーにそう警告した。

 

「ところで、あなたは月の谷に来て長いの?どうして見たことがないのかしら?」

もうひとりが尋ねた。

 

「あの男性はあなたの旦那さん? まあ、なんてラッキーなのかしら。

でも、どうして奥さんが橋から飛び降りそうになっているのを放っておいたのかしら?」肌が黒い女性が興味津々で尋ねた。

彼女は、あの男がリンダラーをずっとつけていたのを見ていたのだ。

すれ違う人たちは皆 あの男性がリョウイチ家のヒデノリだと覚えていたので振り返って見ていた。

 

「いいえ、違うわ。私にはまだ旦那さんはいないわ。」リンダラーは短く答えた。

「あの男の人が誰かも知らないし、知り合いでもないわ。今日初めて会ったばかりよ。」

 

「あの男の人は名家の出の人よ。」同じ女性が歩きながらペラペラ説明した。

「名前はヒデノリさん。リョウイチ一族の人なの。知っているかしら?」

 

「リョウイチ・・?」リンダラーは呟いた。狐の神社を祀るあの一族だ。

 

「そうよ。なぜそんな驚いたような顔をするの?私は毎週数曜日にリョウイチの家に行かないといけないの。」太った女が自慢するように話した。

「ヒデノリさんの祖父のダイスケさんからマッサージをするように呼ばれるのよ。

他の人だと私みたいには気に召さないって。」

 

「ヒデノリさんはあなたのことが好きなのかもね。」もうひとりが笑った。

「彼があなたをずっとつけていたのを見たもの。」

 

「私は知らないわ。」リンダラーにとって、全ては夢のようにおぼろげだった。

「私は何も覚えていないの。何が何だかまるでわからない。私は一人で散歩していただけで、それでお姉さん達とぶつかったのよ。」

 

「それで、あなたの名前は何?」

「遊びに来たの?それとも仕事で?」

「どこに泊まっているの?」

三人の女性は我先にとはしゃいで質問した。彼女たちの顔は興奮していて この若いタイ人女性が月の谷の中のこの小さな町にどうして現れたのか興味津々だった。

 

「ちょっと待ってください。一人ずつ質問してもらえます?」

我に返るや 月の谷のような小さな町にタイ人がいるとは思わなかったので リンダラーはびっくりして目をパチクリさせた。

アキラとアユミがどこに行ってしまったのかもわからない。

彼女は真っ黒な着物の背の高い若者がいないか辺りを見回したが人混みに消えてしまっていた。

 

「タイのお姉さん達はどうしてここへ?」三人の質問に答える代わりにリンダラーは

うまく質問し返した。

 

「私の名前はシリポンよ、キィオと呼んでね。」

丸々と太ったタイ人がまず最初に自己紹介をした。彼女の肌は白く、一重瞼の目で 

もしタイ語を話さなければ タイ人だとはわからない。

 

「私はペンラム。」もう一人も自己紹介した。

彼女は他の二人より痩せていて、顔にはニキビでできた傷跡がある。

 

「私はニッノイよ。」三番目のタイ人女性は笑顔で目を細めた。

彼女の肌は浅黒く、顔は首のところまで白くお粉を塗っている。

 

「ペンラムさん、キィオさん、ニッノイさん。」リンダラーは一人一人名前を呼び

「お目にかかれて嬉しいです。」と言った。

リンダラーは言葉のとおり、本当にそう思っていた。

外国に住んでいるとなにより嬉しいのは同じタイ人に会えることだ。特に月の谷のような小さな町でではなおさらだった。

 

「私たちとはもう知り合いになったわ。それで、あなたの名前は?」

ニッノイが正直に尋ねた。彼女の訛りから想像するに 浅黒い肌の彼女は東北出身者だろう。

 

「私の名前はリンダラーです、でも、ダラーと呼んでくださいね。」若い理学療法士は

3人の女性について川沿いの椅子に座った。

桜が葉桜に変わり、そよそよと涼しい風が吹いている。

打ち上げ花火の大きな音と人々の楽しそうな笑い声が交互に聞こえる。 

 

「あなたはここに何をしに来たの?」ペンラムがまた質問をし始めた。

 

「旦那さんについてきたんでしょう?」シリポンいわゆるキィオが憶測した。

 

「どうして私が旦那さんについて来たと思うんです?」リンダラーは面白がって笑った。

彼女は三人の女性に対して好意を抱いた。それは彼女達が素朴なことを常時来な表情や眼差しで話すからかもしれない。

 

「まあ!」ニッノイが甲高い声を出した。

「月の谷は小さな町よ。取り立てて観光地というわけでもないから遊びに来るタイ人なんていないわ。ここに住んでいるタイ人は皆、結婚して旦那についてきた人ばかりよ。」

 

「私は仕事できたんです。ペンラムさん、キィオさん、ニッノイさん。」

リンダラーはさらに続けて話した。

「私は東京で勉強しているんですけど今大学は休みなのでアルバイトしに来たんです。」

 

「アルバイト?」三人とも目を丸くした。

 

「まさか商売しに来たなんて言わないでね!」ニッノイがリンダラーに顔を近づけた。

 

「そんな馬鹿な。」リンダラーは興味津々に顔を突き出してきた三人の女性をじっと見つめて言った。

「私は考えていらっしゃるようなことで来たんじゃないですよ。病人の世話をしに来たんです。」

 

「え?それじゃあお医者さんなの?」ペンラムが尋ねた。彼女の声は初めより遠慮がちになっていた。

 

「それとも看護婦?」キィオは同じようにリンダラーに畏れを抱くような顔をした。

 

「いいえ、どちらでもないです。」リンダラーは首を振った。

「私は理学療法士です。」

 

「ああ、マッサージ師ね。」ニッノイがうんうんと頷きながら言った。

 

「違います。誤解しないでください。理学療法士はマッサージ師じゃないんです。」

リンダラーはこれ以上相手が誤解をしないよう急いで異議を唱えた。

「理学療法士はマッサージをするだけじゃなくて、他の処方もいろいろあるんです。」

 

理学療法士になってずっとこういう誤解に幾度となく出くわした。

ほとんどの人が理学療法士をマッサージの職業と区別をつけずに考える。

しかし実際のところ、理学療法士はマッサージ師ではない。

予防と治療、そして老人だけではなく全ての年代に起こり得る、病気などでの症状や体調などで起こる異常な身体的な動きを処置する健康科学の専門である。

リンダラーは理学療法士は医者と協力して治療計画を立てる前に患者の症状を診断のため患者の病歴と身体検査のデータを使うことなどを3人の女性に理解させるために時間を費やした。

もし必要であれば、理学療法士は レンドゲン写真や電気生理診断検査や筋電図などの医学的診断結果やデータを参考にする。

そして治療方法はマッサージだけでなく、温湿布や冷湿布、水流マッサージ、

 超音波を使って筋肉の痛みや硬直を和らげたり、電気的な刺激を与えたりなどその他たくさんの方法があるのだ。

 

「まあ、あなたの仕事ってすごく難しいのね。てっきり患者の筋肉痛を取るためにマッサージをするだけかと思っていたけど とんでもない!考えた以上に全然難しいことだったのね。」

ペンラムは感嘆の声を上げ それ以外の二人も彼女を驚嘆の眼差しで見つめた。

 

「私たちは理学療法ってマッサージよりもそんなに複雑なことだったって知らなかったわ。」キィオが言った。

 

「そういうことなら、ダラーは私たちを手伝ってくれなきゃ。私たちはね、この町で共同でタイ式マッサージの店を開いているのよ。」ニッノイがリンダラーにお願い事をしはじめた。

 

「日本に来る前に 私たちは厚生省とワットポー寺院のマッサージを少し勉強して来たのよね。でないと働いたり、店を開く許可がもらえないから。」

ペンラムは説明をした。

「でも、私達は短期の主な施術法しか勉強していないからそう多くは知らないのよ。」

 

「以前に大都会で店を開いていたんだけど・・。」見るからにかなりおしゃべりなキィオが話し始めた。

「それがさあ、年配の日本人たちは私達の店に来て たぶんあれ系のサービスをする店だと思っていたみたいで、そんな店じゃないって説明するのが大変だったわ。全くどういうことかしら。たぶん それより前に名前を汚すようなことをした人たちがたくさんいたのね。」

 

詳しく説明しなくても リンダラーにも あれ系のサービスとはどういう類のサービスなのか見当はついた。

 

「いいですよ。」リンダラーは笑顔で快諾した。

「お姉さん達が店を開いているならなおいいです。マッサージの正しい方法がどんなだか簡単に教えられるわ。お姉さん達は基礎があるから容易く理解できるわ。」

 

「じゃあ、後日待ち合わせしましょう。今はあなたを探しに来た人がいるみたいだしね、ダラー。」ペンラムは彼女の後を顎で指し示しながら言った。

 

リンダラーが振り向くと アユミの車椅子を押しながら向かってくるアキラの姿が見えた。

 

「大変、大変。」ニッノイは面白がって笑った。

「美人さんは選り取りみどりね。ほら、また新しい男性がついてきたわ。」

 

「あの人は私の雇い主です。」リンダラーは眉をひそめた。

「誤解しないでください。あの人は 障害者の姪を世話させるため私を雇っているんです。」

 

「宮川家の坊ちゃんじゃない!」キィオは顔を突き出して見た。

 

「面倒なことになるからアキラさんを見つめないの!」ペンラムは友達を叱った。「顔を見られるのを嫌うんだから。」

 

「それじゃあ、私たちは行くわね。」三人は慌てて立ち上がり 手を振って急いで別の方向へ立ち去っていった。

 

「私達の店は月市場にある”ハッタシン”という名前の店よ。小さな町だから探すのは難しくないわ。」

別れる前に ペンラムがリンダラーに念を押した。

「じゃあ、またね。」

 

「さっき誰と話していたんだ?」

アキラは眉をひそめながら尋ねた。彼の顔は リンダラーは知らない人間とつきあうのをあまり好ましく思っていないようだった。

 

「あの人たちはタイ人なの。」リンダラーは短く答えた。

「さっき会ったばかりよ。」

 

「君は見ず知らずの人間と簡単に仲良くなれるようだな。」アキラはこれみよがしに言った。

「さっき会ったばかりの人間とでも長く知っているみたいに楽しく話しができるもんだ。」

 

「だったらなんだっていうの?」リンダラーは文句を言った。

「同じタイ人と会ってそんな風に話ができるならいいじゃない。まさか月の町でタイ人に会えるなんて思ってもいなかったんだし。」

 

「必要なければ 関わらないのが一番だ。」アキラはさらりと言った。

「僕らは君を遊びにじゃなくて仕事のために雇っていることを忘れるな。」

 

「ええ、あなたの雇われ人としてここに来たことを忘れてはいないわ。」リンダラーはきっぱりと言った。

アキラの感情は家を一緒に出た時のとは急変してしまっているようだった。

機嫌が良かったのがどうしてこれほど急に不機嫌になってしまったのか。

「でも、雇われ人もあなたと同じ人間だということも忘れないでね。雇われ人にも自由時間、どこに行くのも誰と何をするのもその権利はあるのよ。」

 

 「リンダラー」彼は彼女の腕を引っ張り自分に近づけた。彼の厳しい表情は胸の内に煮えたぎる苛立ちを訴えていた。

「僕にいちいち反論するな。」

 

リンダラーが言い返そうとしたその時、後から誰かの金切り声が聞こえた。

 

「アキラ!」

新たにやって来た女が 力いっぱい彼女のもう一方の腕を引っ張り、リンダラーはよろめいた。

 

「何でこのマッサージ師の女の腕を掴んでいるのよ?!さっさと放して!リエは嫌いだわ!」

遊園地で会ったことがある背の高い女だった。

今回の彼女は真っ赤な浴衣を着、しっかりと化粧をして、見るからに高価な緑色の鞄を持っている。

あまりにも大きな声を出すので 通りかかった人達もびっくりして足を止め見ていた。

 

「あなた・・。」相手の言いようは我慢できないほどムカつくものであったが、リンダラーはなるべく冷静になるように努めた。

「言ったでしょう、私はマッサージ師じゃないって。もっと礼儀を知りなさいよ。」

 

「何であなたに礼儀を払わないといけないのよ?」リエはリンダラーの方にすばやく振り返り言った。

「私はあなたのことをマッサージと呼んで何がおかしいのよ?マッサージ師、マッサージ師、マッサージ師!!」

 

リエはいい気味だと言うようにリンダラーに向かって叫ぶと アキラは我慢できず彼女を大きな声で叱った。

「リエ、いい加減にしろ! 今後二度と光のことをマッサージ師と呼ぶな!

他人に敬意を払うことを大概にして学べ。でないと誰もが 君の家族は娘を他の人みたいにまともな人間になるように教育しなかったと思うぞ!」

→ 2ページ(第11章~)に続く